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第1章
無料配布 pdf 無料配布 doc © 2006 all rights reserved Eric Mellema www.nostredame.info 英日翻訳 ラリス 資子 第2章
ジャンの死から数ヶ月が過ぎ、16歳になったミシェルは占星術を学ぶためにアヴィニョンへと旅立った。大学で占星術を専攻するというミシェルの変わった選択を両親は不承不承ながらも許したのだ。アヴィニョンは、サン・レミからたった20マイルしか離れていないので、頻繁に両親や兄弟を訪問することもできるであろう。アヴィニョンは法皇邸がある重要な都市である。1304年以来、ローマでは生命の危険を感じたフランス人の歴代法皇とカソリック指導者はアヴィニョンに居を移していた。以来、この町とその周辺は法皇領となっている。 「これから先、お別れを言う機会が増えそうだわ」レニエールはその美しい顔を涙で曇らせ嘆き悲しんだ。 「すぐに戻ってくるよ」息子は約束した。 「そう願うよ」父親は、息子を固く抱きしめた。大学生になりたてのミシェルが兄弟に別れを告げると出立の時が来た。一家は、馬車が視界から消えるまで手を振りミシェルを見送った。 「この世の地獄とはこのことだわ」時折、夫人は怒りをもらしていた。幾度も瓦礫に道を阻まれ、その都度、ミシェルは瓦礫をどかした。何時間にも及ぶ嵐との苦闘の末、疲れきって濡れねずみとなった一行はようやく法皇領に達したが、苦難の旅はまだ終わったわけではない。ローヌ川を越えねばならない。向かい風に行く手をはばまれながらも、一行は有名なアヴィニョン橋に到達した。ここまで、夫人とミシェルは、交互に手綱をとっていたが、風が吹きすさぶ橋を前に、夫人は自ら馬車を御して橋を渡ることをかたくなに主張した。夫人が荒れ狂う川を渡ろうと馬に鞭を入れたその瞬間、ミシェルがいきなり叫んだ。「止まれ」夫人はすぐさま手綱を引いた。馬がいななき、馬車は急停止した。末娘が泣き出し、姉は懸命に幼い妹を慰めた。 「いったいどうしたわけなの」母親は驚いて尋ねた。ド・ノートルダムは、何も言わずに泥の中に飛び降りると、恐れを知らぬかのように、嵐の中を外套をなびかせ確固たる足取りで橋に向かった。そして石の橋脚のもとで立ち止まり道に見つめた。増水した川の流れを感じ取るとミシェルは馬車へ戻った。 「何をしているの?」プロムベール夫人は叫んだ。 「荷物を馬車から降ろしなさい」彼は答えたが、激しい風に彼の声はかき消された。 「気でも狂ったの?」 「今にも橋が崩壊しそうです」ミシェルは御者台に乗り込み説明した。 「何をバカなことを。何十年と荷馬車が橋を往来しているのよ」夫人は怒りもあらわに反論した。夫人に抵抗するためにミシェルは荷馬車から飛び降り、腕組みをして泥の中に座りこんだ。しばし思いあぐねた後、夫人は、彼の言うなりになることにした。 「しょうがないわ、その代わりあなたが働くのよ」夫人が命じるとすぐにミシェルは、荷物を対岸へ運び始めた。母親は、キャンバスの下から子供たちを抱き上げ、手をとって、彼らの奇妙な同行者の後を追った。対岸に着くと、夫人と娘たちは、岸壁の脇に避難場所を探し、その間にミシェルは馬と荷馬車のもとへ戻った。 「今晩、アヴィニョン橋が崩壊し7名の死者がでた」市長が話し始めた。「橋は、1226年にも崩壊している。皆もわかったであろう。あの橋は神の思し召しにかなわんのだ。かつて、橋を建築したベネゼを聖人としたのは間違いであった」
川にそびえる断崖の上に歴史をたどるアヴィニョンは、辛らつな気風を持つ町であった。かつては、ケルト族の中心地であった町は、ケルン、リヨン、アルルを結ぶ、有名なアグリッパ街道に位置しているにもかかわらず、よそ者を受け入れない。昔、お祖父さんは、アヴィニョンっ子の無慈悲さを「パリでは人は議論する、アヴィニョンでは人に刀を突き刺す」と評したものであった。 ある日、ミシェルは運動をしようと、早朝5時に時計広場を訪れた。この時刻の時計広場は、まだ人に汚されておらず清浄で、だれに邪魔されることもなかった。運動を終えて爽快な気分で、街路を抜け町の城壁の外側へ出た。するとどこからともなく、衛兵に守られた数台の馬車が現れ、奇妙な場面が繰り広げられた。大柄な男たちが大急ぎで、疲弊した馬を新しい馬に交換している。その上、一台の馬車の中には短躯だが太った男が2人の強面の衛兵に挟まれ座っていた。男の胸はたくさんの勲章で飾られていた。 「おいお前、そこに根でもはやしちまったか?」いきなり職人が悪態をついた。 「たった今の暴動を見なかったのか?」 「うんにゃ、俺にはよそ者しか見えん。よそ者がわしらの縄張りに入るのは気に入らん」職人は荷車を引いて立ち去った。昔ながらのアヴィニョン気質だ。 たった今見た奇妙な暴動(1814年失脚した皇帝ナポレオンはアヴィニョンで石を投げつけられるところであった。)は、ミシェルの幻覚以外のなにものではなかった。
最初の学期の終わりには、教師たちはこぞって、若きド・ノートルダムをほめちぎった。それは素晴らしことであったが、すでに祖父から占星術について深い教えを受けていたミシェルには教師が教えることはあまり残っておらず、ミシェルも彼らがさらに自分の知識を広げくれるものとは期待していなかった。 「余、アルティフィウスは、これらの術すべてをヘルメスの魔術の書によって学んだ。これまでの長い人生で、完璧なる錬金術を欲する民に行き会ったが、余は多くの民がこの術を手にできるようにこの術について書き残すことを望まない。なぜならば、錬金術は、神または、マスターにのみ明かされるべきものであるからだ。よって、博識で自由な精神をもったもののみが読むときに限り余の書は有益である。余もかつては他の者と同じように嫉妬を覚えたものである。余は千年に渡る年を神の情けのみによって生きてながらえている。」 この男はメトセラと同じくらい老齢だ、ミシェルは興奮した。彼は、この2冊の本を読むことを心に決めたが、根気よく探したにもかかわらず、これらの本を見つけることはできなかった。 ヘルメスが書いた本は、おそらく存在すらしないのであろうと考え、代わりに見つけ得るすべての錬金術に関する文書を読むことで我慢した。 「グリムベルトさん、ありがとう。また明日」また一日が過ぎ、疲れを感じたミシェルは、サン・アグリコル通りの質素な部屋に帰り、温かい粥を作って食べた。 その夜、彼の望みはかなえられた。ミシェルの迷える魂は、崇高で力強い何かに触れ、彼は身震いしベッドに起き上がった。 「ミシェル・ド・ノートルダムよ。我こそがそなたが探し求めている者である。余はヘルメス。ゼウスとタイタンの一人であるアトラスの娘マイアの息子である」ミシェルの目の前には、羽のついた帽子を被り、蛇の巻きつく杖を手に、筋骨逞しく光輝く人物が座っていた。ヘルメスは続けた。「余は3つの世界の主導者である。アルカディアの洞窟に生まれ、神々の中では最速であり、泥棒の神でもある。エジプト人は余をトート、ローマ人は余を火星と呼ぶ。余は、創世記によるところのヘルメス・トリスメギトスである。余は、「石への望み」、「賢者の石」そして、「エメラルド・タブレット」である。現世における我が弟よ、お前の運命は定められた。お前には、来るべき次世紀に地上で再現される宇宙のドラマの役が与えられた。しかし、月が満ちるまでの間は別の方向へと進みたまえ、黒死病によってお前の眠っている知能が目覚めるまで」ヘルメスは出現した時と同様にいきなり姿を消した。後には巨大な虚無が残った。ミシェルは、この強力で超自然的な対面に耐え切れず、その場に倒れこみ、翌日の昼過ぎまで目覚めなかった。気分がすぐれなかった。それでも、つまずきながら立ち上がり、かばんを手にし、大学へ行き勉強にしようとしたが、もうすでに大学に行くには遅すぎるし気持が混乱しているので、再びベッドに腰を下した。 「ひどく気分が悪い」彼はうめいた。苦労して、昨夜のヘルメスからのメッセージを思い出したが、その意味は理解できなかった。 医学こそ我が道である、彼は結論を出した。翌日、彼らの信用を傷つけないよう気を使いつつ、教師に相談した。教師たちもミシェルの両親の説に理解を示し、ミシェルは和やかにアヴィニョンの学び舎を後にした。
短期間、家族のもとに滞在した後、すぐにミシェルは、次の大学があるモンペリエへと旅立った。 「ようこそ、ド・ノートルダムさん」ミシェルが入っていくと、大学の職員は親しげに挨拶した。 「講義はすぐに始まります。ハシェ教授が講義します」彼女は告げた。彼女はミシェルを後方の教室に連れて行き、非常に生き生きとした目の青年の脇に座るよう空席を指差した。 「数千年前、人類最初の医者は、患者の頭蓋に穴を開けることにより病気の治療を試みた」彼は言った。ミシェルの隣のフランソワは、わざとらしく彼の額を指した。 「その通り、このことがその身振りの所以だ」フランソワの行動に気付いたハシェが言った。 「しかし、まったく的が外れているわけではない。病気の元と考えていた悪霊を身体から追い出そうとしたのだ。これを穿頭と呼ぶ」トゥルーズから来た学生が手を挙げた。 「質問は、講義の後で聞く」教授は言った。 「古代ギリシャ時代においては、病人は寺院へ行き、医学の神アスクレピオスに生贄を捧げ、治癒の水を飲み、その水で身を清め、厳しい食事制限に従った」同じ学生が手を挙げた。 「私がたった今言ったことが聞こえなかったのか?」教授は言った。 「私は、悪霊を腕から追い出そうとしているだけです」学生はおどけて言った。 「すぐに出て行きなさい」ハシェは予想以上に厳格であった。学生は、青ざめて立ち上がり教室を後にした。 「くだらん冗談は私の授業では許さん」教授は講義を続けた。 「紀元前400年には、ギリシャの医師、ヒポクラテスが科学的医学の基礎を築いた。彼は、病は悪霊によるものではなく、自然の摂理であり、自然の力においてのみ治癒が可能であると説いた」学生たちは一団となり沈黙を守っていた。 「紀元200年ごろ、やはり、ギリシャの医師、ガレノスは、四体液説を説いた。これは、人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁の4つの液体、つまり体液から成り、これらのバランスを保つ必要があるという説である。これで、医学史の序説を締めくくる。ここで質問を受け付けるが、簡潔に述べるように」学生たちは一瞬躊躇した。 「女性も、男性と同じ量の、血液、粘液、胆汁を持っているのでしょうか?」学生の一人が質問した。 「我々にもそのことについては確信がない。しかし、これらの体液のバランスが崩れると男女ともに病気になる」彼は答えた。 「僕の母親は、胆汁をたくさん吐き出しますが」バスクからきた学生が言った。 「病気にかかっているに違いない」ハシェが言った。 「そんなことはありません。すこぶる元気です」 「いずれにせよ、患者を診なければ診断できん。幸い、我々の医術はガレノスの時代より進んでいる。我々は、人体を切開するなど、科学的研究を重ねておる。もし、君の母親が近くにいるなら、」教授のまんざら冗談でもなさそうな勧めを聞いてバスクの学生は青ざめた。 「生きている人間も切開するということですか?」彼は尋ねた。 「その通り。だが、生体解剖はめったに行われない。主として死体を解剖し詳細な人体解剖図を描いておる。人体解剖により、我々は、新たな知識を得て、それは今日の医療に役立っておる」 「現在どのような治療法がありますか?」今度はミシェルが聞いた。 「例えば、薬事療法だ。薬は、液体、粉末、錠剤に精製されておる」教授は答えた。「だが、残念なことに、偽医者、薬草家、魔女が薬を調合していることもある。その他の効果的な治療法には瀉血によって病を身体から流し出す方法もある。瀉血は私の専門だ」 「町を通っていかないか?」ノートルダム・デ・タブレ教会で追いついてきた学生がミシェルを誘った。教室で隣に座っていた生き生きとした目をした学生フランソワ・ラブレーである。ミシェルもその気になり一緒に町を歩き回った。彼らはすぐに意気投合した。 「じゃあ、ぼくらは似たような境遇だね」フランソワは言った。 「境遇?」ミシェルが驚いて尋ねた。 「それは、ユダヤ教とカタリ教は、両方とも、カソリックから見れば脅威だ。君はユダヤ教徒、僕はカタリ教徒だ」 「君がカタリ教徒だって?カタリといえば、最後のグノーシスだろ」 「もちろん、神のみぞ知る、だ」フランソワは、にやっと笑った。「我々は、表立ってはカタリを信仰していないが、真のクリスチャンとして、影では信仰を続けている。実のところ、モンペリエには、かなりの数の信者がいる。僕の父親は、モンペリエで食堂を経営しているが、そこで、時々集会を開いている。もちろん隠れてだけど。もし興味があるなら、一度連れて行ってやるよ」 「おもしろそうだね。僕は、君たちがどのような説を唱えているのか興味があるよ。ラテン語の聖書などの研究を通して、グノーシスの教えは常に十分な根拠に基づいている」 「その通り、だから、カソリックの指導者に嫌われているのさ」フランソワは付け加えた。 「君たちの信仰が禁止されている理由はそれだけかい?」 「いや、我々は個人主義者だ。そして、我々の聖典は福音書から直接翻訳されている。一方、教会は、力を基にして成り立ち、彼らは原罪について教えている」 「そうだね。法皇、司教、神父は、聖書を彼らの都合の良いように解釈している。だが、基本的に、我々は同じものを信じている」これは、ミシェルの宗教観であったが、ラブレーはミシェルの考えに疑問を持った。 「我々には独自の規律があり、我々は、カソリックが信じるように全霊の神がすべての善悪を創造したとは信じていない。その上、我々は、個人の自由、女性平等を求め、あらゆる暴力に反対している。カソリックは違う!」 「僕は、もともとのギリシャの聖書のことを言っているんだよ」ミシェルは正した。「ギリシャの聖書ではそのことに異議を唱えていないよ」 「フム、そうかもしれない。僕は君ほど勉強していないんだ」
1年間、医学の基礎を学んだミシェルとフランソワは、難なく、次の課程に進んだが、2年生のクラスは30人に減っていた。今日は、彼らの初の実習である。ハシェ教授は、教壇に立ち、てぐすねを引いていた。 「諸君、2年生の課程は、瀉血の実習で始めることになっておる。実際に不治の病を宣告された患者を私自身が執刀する。心配するな、黒死病の恐れはない」 「黒死病とはなんですか?」ミシェルが聞いた。 「それは、君、ペストの呼び名だよ。だが、これ以上、講義を中断せんでくれ。大量の出血を伴うが、諸君が気を失わないよう願うよ。私は慣れているがね」助手が、黄疸の症状が著しく、衰弱して座っていることもできない女を椅子に縛り付けて運びこんだ。患者は、目もうつろで焦点が定まらず、まっすぐに前を見ることもできない。周囲のことなど気にすることもなく、うめき声を洩らしていた。彼女の胸の痛むような症状に教室には動揺が走った。 「君たちは、彼女に同情して、私のことを残酷だと思っているだろう」教授は言った。「しかし、実験は科学に貢献する。結果を考えればその手段も許されることだ。その上、この女性には経済的な補償が与えられることを約束する」ハシェ教授は尊大な態度で被験者に近づき、後を続けた。 「瀉血には2つの方法がある。1つは、血管を切る方法だ」教授は、患者の腕の適切な位置を示した。「2つ目の方法には、ヒルを使う」彼は、ポケットから、様々な生体標本の入ったビンを取り出した。 「今日は、1つ目の方法のみを実習する。いずれにせよ、こいつらはすでに満腹しているからな。1つ目の方法では、患者は棒を握り締めなければならない。血管を膨張させ、瀉血処理を早めるためだ。残念ながら、この女性は衰弱して棒を握ることができないので深く切開しなければならない」彼は、医療鞄からメスを取り出した。 「この実演を私と一緒に行う志願者はおらんか?」彼は聞いたが、その勇気を持つものはいなかった。そこで教授が指名した。 「ド・ノートルダム君、手伝ってくれるかね」ミシェルは従順に立ち上がり教授に近づいた。 「ここを縦に切開してくれ」教授は、ミシェルにメスを渡しながら命じた。 「まず手を洗うべきではありませんか」ミシェルは聞いた。 「手を洗うって、何のために?もし君が怯えているのなら、私が自分でするよ」 「教授」フランソワが果敢に割り込んだ。「私の学友が意図したのは、もし、僧がなまけて土地を耕さなければ、農民はその土地を守ろうとしないでしょう。もし医者が民に病を治すことを教えなければ、民は病を癒すことはありません。お分かりですか?」ハシェは一言も理解していなかった。 「ウム、その通りだ」教授は嘘をつき、自分自身で、乱暴に前腕部に深い切り込みを入れた。予想通り、そこから血が噴出したが、教授は、慣れた手つきでガラス容器にそれを集めた。ミシェルは教授のなすがままにまかせ、席に戻った。 「詮索好きだが臆病者の君か、続けろ」ハシェは皮肉った。 「将来、身体の一部を人体移植するようになるでしょう」ミシェルは提案した。 「君はまじめな学生だと思ったのだが」 「僕はまじめです」 「明らかにふざけとる」教授は否定した。 「僕はまじめに言っています」ミシェルは主張した。 「だれも、そんな根拠がないくだらない話に興味を持たんよ」 「もちろん、科学的な根拠を申し上げられませんが、教授は、推測をお尋ねになったのですよね」 「もう十分だ。今後、私の授業に下らん考えを持ち出さぬよう」教授は、ばかにされたかのように憤慨して言った。授業の後、ミシェルは、フランソワに、怠け者の僧の話は何の意図があったのか尋ねた。 「いや、別に意味はないよ。ただ、あの鬼教授の思考能力をテストしてみただけだよ」彼は気軽に言った。 「君はまったく意地悪だね」 「もちろん」ラブレーは恥ずかしさなど微塵も見せず笑った。帰り道、彼らは衛生の必要性について語り合った。
ある晩、2人の友人は、フランソワの父親の食堂で、カラス貝の料理をご馳走になっていた。食堂は、熱心に会話をかわすカタリ信者であふれていた。今晩は、食堂の裏の部屋で礼拝があるのだ。元ユダヤ教徒であるミシェルも招待されていた。礼拝を待つ間に、フランソワは最近、イタリア語の医学書を翻訳していて忙しいことをミシェルに打ち明けた。 「意欲的だね」ミシェルは答えた。 「それだけじゃない。デビュー作となる小説も書いているよ。「偉大な巨人ガルガンチュワの息子、高名なるディプソードのパンタグリュエル王の世にも恐るべき言動」といタイトルだ」 「すごいタイトルだけど、ちょっと長すぎないかい?」友人は意見を述べた。 「たぶん、単に「パタングリュエル物語」とした方がいいかもしれない。ところで、話は変わるけど、君は、自分自身で満足を得られるかい?」 「何だって?」 「マスターベーションをするかい?」 「フランソワ、その質問は行き過ぎだ。君の知ったことじゃない」ミシェルは怒って答えた。 「おい、僕はただ、これから始まる秘教の教えに備えて聞いているだけだよ」 「何を言っているんだい?」ミシェルは混乱して尋ねた。 「礼拝では、お祈りをするだけではなく、グノーシスの教え、つまり聖なる知識が明かされる。今晩は性行為についてだ」 「今夜は、ヘルメスの杯について話をする」彼は信者に告げた。 なんてこった、ミシェルはつぶやいた。ヘルメスはゼウスとマイアの息子、神の使いだ。 「皆も知っているように、古い経典では、我々に性力を細心の注意を持って扱うよう教えている、しかし、なぜ、我々は長年にわたり貞節を持つように教えられているのであろうか?その答えは、教会が信者に信じ込ませている説とは異なる。教会は、生殖に励むよう命じている。信者の子孫を新たな信者として取り込むのは容易だからだ。権力への渇望から、教会の指導者は福音書を曖昧に曲解し真の理由を隠しているのだ。古い経典では、「種を失うな」とのみ説いている。言い換えれば、種を失うことを許していない、愛の行為の間にあってもだ」ミシェルは驚いてフランソワを見た。さっき言っていたのはこのことか。 「ご起立願います」信者が立ち上がり、ごく普通の祈りを捧げた。フランソワは心から祈りを捧げていた。さらに15の神秘が語られ、礼拝は終わり茶が供された。 「礼拝の前には、君が猥褻に身を落としたのかと思ったよ」ミシェルは詫びた。「でも、カタリの教義にはすっかり心を奪われたよ」 「君が興味を持つと確信していたよ」フランソワが答えた。 「もちろんだ。でも、カタリの教義では、人生は人に与えられた罰であるかのようだね」 「もちろん、一生の間には収穫もできる。この術を正しく使えば、特別な力を培うことができるんだ。自然は君の言うことに耳をかたむけるだろう」 「馬とも話しができるっていうこと?」ミシェルはおどけた。 「例えばね」 「まじめに言っているのかい?それともぼくをからかっているのかい?」 「僕はまじめだよ。紅海は、モーゼのために道を開いたじゃないか?」ラブレーは指摘した。 「それじゃあ、すぐにも全人類はこの術を実行に移すべきだ」 「それはしない方がいいよ、この世に、この術に値するほど清廉な人間はほとんどいない。誤った意図でこの術を使えば、混乱が起きるだけだ。この世は闇の人間ばかりだ。気をつけろよ」ミシェルは、しばらくの間考えこんだ。 「この術の術者にも子供ができるのかい?」彼はたずねた。 「こうのとりが運んでくるさ」 「よかったよ。君のくだらない冗談が戻ってきた」仏頂面をして、ミシェルが帰ろうと立ち上がった。 「ごめんよ。まじめに答えるよ。普通の人たちが人口を維持するために十分な子供を生んでくれているよ。その上、優れた子供は新しい信者から生まれてくるものなのだ」 「欲望を超越することがこの術の基本だと思うよ」ミシェルは考えた。 「実際のところ、イブが禁断の実を口にして以来、楽園から男が消え去ったのだ。我々は、山を動かしてでもイブの罪を償わなければならぬ」 「禁断の実?」 「禁断の実は男の精子の象徴さ」フランソワは最後の一杯のお茶を飲みながら説明した。「で、君はマスターベーションするかい?」 彼の友人は、悲しげに首を振り部屋を出た。まったくラブレーは困ったものだ。
数年に渡って集中的に医学を学んだミシェルに医師として治療にあたる許可を得た。大学での課程は終わっていなかったが、彼は大学を離れ、実際にペスト患者の治療にあたることを望んだ。黒死病が彼の眠っている洞察力を呼び覚ます、とヘルメスが言ったことが常に頭から離れなかったのだ。 「で、自分のことをなんて呼ぶつもりだい?」フランソワは尋ねた。 「ただ、ド・ノートルダム医師だ」 「科学者が自分の名前の語尾をラテン風に変えているは知っているだろう?」 「うん、でも...」ミシェルは、虚栄を張ることを嫌い躊躇した。 「第一印象が大事なんだ。ノストラダムスはどうだい?」 「なかなかいいね」 ミシェルは、自分の医学知識をサン・レミの近隣で役立てたいと思い、両親の家へ帰った。両親は息子の帰宅を喜んだ。父親は、ミシェルが祖父の屋根裏部屋を使うように提案した。 「ジュリアンに最初に相談したほうが良くはなくって?」レニエールは夫に注意した。 「ジュリアンは、屋根裏部屋で勉強しているだけだが、ミシェルは、家のために稼ぐようになるんだ」父親は言い返した。 「あの子をあっちこっちに移してばっかりよ」母親は譲らなかった。 「わかったよ、ジュリアンに聞いてみるよ」屋根裏部屋で、法律を勉強していたジュリアンは、長兄のために場所を空けることに異存なく、本をまとめて階下の自分の部屋へ戻ることになった。ジュリアンにとってもミシェルの帰宅は歓迎すべきことであった。教科書の翻訳を手伝ってもらえる。 「私が何をするかは決めたわ。マッツァを作る」将来の計画を語り合う重い雰囲気を吹き飛ばすように、レニエールが軽快に言った。「ミシェル、手伝ってくれる?その間にモンペリエのことを聞きたいし」ミシェルは喜んで、母親の後について台所へ行き、粉と水を混ぜ始めた。 「で、学校はどうだったの?」母は促し、息子は、学生時代の出来事を語り始めた。 「あら、裏庭で火を燃やしていたのを忘れていたわ」彼女がさえぎった。「すぐ戻ってくるから、パンを捏ね始めていてちょうだい」数分後、母親は煤にまみれて戻ってきた。ミシェルは、それに気付かぬふりで話を続けた。 「病気の知人がいるんだが、見てやってくれないか?」食後にジャックが頼んだ。 「それは、市の医者の仕事でしょう?」ミシェルが聞いた。 「その医者をあまり信用しておらんのだ。デルブロンドさんの容態は悪くなる一方だ」 「それじゃ、様子を見てみます」息子は約束した。 「ところで、アルル市で医者を探しているようよ」レニエールが思い出した。「応募してみたら?」 「そうしてみるよ。ありがとう。おかあさん」 翌日、ミシェルは病の床についているデブロンドを訪れた。これまで、デブロンドは市の医師ヴィリアンの治療を受けていた。ヴィリアンは、市民の傷の治療し、腫瘍を切開し、瀉血を行い、歯を抜き、ハーブ薬を調合し、髪を切り、鬚も剃る。 彼を一目見るやいなや、ミシェルの懸念は確信に変わった。ヴィリアンの治療は旧式だ。デルブロンドは、緩下剤と各種の切開によって衰弱していた。患者の容態は致命的であった。ベッドに横たわるデルブロンドの脇には彼の妹がつきそっていた。ミシェルが自己紹介をすると、半分錯乱状態ではあったが、デブロンド老人はミシェルを覚えていて昔話を始めた。しかしすぐに妹に引き止められた。 「先生、すぐに診察してください」彼女は言い、切開した皮膚が化膿して兄の容態がより悪化したことをミシェルに告げた。ヴィリアンは切開により余分な体液を取り除こうとしたのだ。ミシェルは患者を診断しその結果を教えた。 「病気自体は致命的ではなかったのに、これまでの治療法によってお兄さんは致命的な状態になっている。もし、お兄さんに殺したくなければ、切開したところを縫合しなければならない。そして、下剤はすぐ捨てなさい」彼は厳しく指摘した。妹はショックを受けたが、治療法が間違っていたことに気付きミシェルに同意した。 「お兄さんに、新鮮な果物と野菜を毎日あげてください」帰りがけにミシェルは妹に言った。「少し回復したら、また来ます」 この「不法診療」の話を耳にした市の役人は激怒し、警察にこの偽医者を捕まえるよう命令した。しかし、ミシェルは、医者の認可証を見せ、フランス内のいかなる患者を治療する権利があることを証明した。役人たちは、乱暴にもサン・レミには、一人しか医者は必要ないと主張したが、ノストラダムスは一歩も引かず、彼らはなすすべもなかった。 1週間も経たぬうちに、デルブロンドは体力を取り戻し、一躍注目をあびたミシェルが少し散歩をするように勧めると、数ヶ月ぶりに町の中を歩き回った。市民が見守るなか、彼の健康は飛躍的に回復し、ヴィリアンと役人は面目丸つぶれであった。 この疫病は非常に伝染性が高く、家族の一人がペストに罹れば、その家族もまた2日から6日の間に死に至り埋葬される運命を逃れることができない。犬、猫、鶏、馬でさえ犠牲者であった。しかし、ミシェルは、その恐怖を撥ね返し、あたかも自分は免疫があるかのように治療にあたった。 ミシェルは、彼にとって初めてのペスト患者を診療しにこのペストが蔓延する村を訪れ、泥で作られた小屋で死の床にある少年のもとに案内された。幼い少年は血を吐き、身体中が大きな黒斑点と卵大の腫瘍に覆われていた。母親は空気を清浄しようと床に酢を撒いていた。果敢な医師ミシェルは少年を診察したが、実のところ、彼にもなす術はなかった。ペストの治療法はまだ発見されていない。大学では、瀉血を施すよう教えられていたが、ミシェルは症状を悪化させるような治療を行うことを潔しとしなかった。家族に少しでも安らぎを与えようと、子供の首に悪霊払いに使うハーブのお守りをかけた。彼は、この非常に伝染性の高い疫病の症状の記録をとり、なんら実質的な治療も施せず、少年を後にせねばならなかった。 その後、ミシェルは数人のペスト患者を訪問したが、彼らは、まず神のもとでの魂の安らぎに救いを求めていた。彼の訪問先どこにでも、患者を案じる神父が懺悔を聞き、死後の安らぎの地を保証しようとしており、残念ながら、ミシェルの治療は二の次であった。 第3章 |