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  第1章


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Eric Mellema
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英日翻訳 ラリス 資子





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ポー ネー ロロンは血よりも火になるだろう
賛美のなかを泳ごうと 大いなる者 合流の地へ逃れる
彼はカササギが入りこむのを拒むだろう
パンポン デュランスが彼らを幽閉しつづけるだろう
(山根和郎訳『ノストラダムス全予言』)



 ある夜ふけのこと、ピレネー山脈の山奥にある一軒の宿屋の扉が激しくノックされた。この予期せぬノックに不承不承、扉を開けた亭主は、玄関口に立つ恐ろしげな男の姿に立ちすくんだ。その不気味な男は薄汚れたフードつきマントをまとい、ひげは伸び放題、なめし皮のような顔に邪悪な表情を浮かべていた。
「すまんが、宿はもう閉めちまったよ」男の様相に恐れをなして亭主は客を断った。
「じゃあ、どうして扉が開いてるんだね?」男はきき返すと、亭主に一フラン硬貨を押しつけ、強引に宿の中に入ってきた。
「数日、泊まりたいだけだ」男は言葉を続けた。
この男と言い争ってもしかたがないようだ。「部屋はなんとかするがね」亭主は口ごもった。「お客さんの名前を教えてくれないかね」
「ディスキュートとでも呼んでくれ」男が答えると亭主は男を部屋へ案内した。
「寝る前に一杯やって、食事をしたいのだが」男は言って、また硬貨を亭主に握らせた。
 この男は金に糸目をつけないことは確かだ。欲ばりな亭主は急いでビールが入ったジョッキを男に出し、食事のしたくをするために台所へと姿を消した。しばらくして、亭主はこの奇妙な男に温かい粥を出した。亭主は床につきたかったが男への不安がぬぐえず、もうしばらく男を見張っていた方がいいだろうと思い直した。
「ディスキュートさんとやら、今夜は夜空がきれいだよ。こんな山の中でもこれほど満天の星はめったに見られんよ」
「いや、気づかなかった」男は答えて平然と粥を食べ続けた。
「火星だって見えるよ」亭主は話し続けた。
「裸眼でかい?」
「もちろん、他に何があるんだい?」
「望遠鏡だ」男はそう言って口をぬぐうとビールを一気に飲み干した。
「そんなもの聞いたことありませんぜ」亭主はどもった。
「昔、持っていたんだ」男は言った。粥を食べ終えた男は、部屋へ戻って床につこうと立ち上がった。
「それでは、おやすみなさい。さっきは宿泊をことわって悪かったな。かんべんしてくれ」亭主はようやく、男を一人にしても間違いはないだろうと思い言った。
 男は部屋に入るとマントをフックにかけた。そして、重い足取りで鎧戸が下りた窓に近づき鎧戸を開けて、いつになく雲がひとつもない夜空を見上げた。たしかに、火星が裸眼で見える。
 人はこの世に生まれ、やがてこの世を去っていく、だが、星はいつも変わらずに空で輝いている、光輝くスピカを見ながら男は考えた。ずいぶん昔のことだ、お祖父さんと一緒に夜空を見たのは。ミシェルはホルダーから財布を取り出して枕の下に隠し、かびくさいベッドに横たわった。
 明日は、山の中を歩いてみよう、ミシェルは窓の外を見つめた。 しばらくすると上弦の月が昇った。さすらい旅人、ミシェルがこの母性本能と不確実性の象徴である月を見つめていると、月は、しだいに大きくなり、あたかもミシェルの注意をひこうとしているかのようであった。ゆっくりとミシェルの意識は薄れ、いつの間にかあたりは月の光で真っ白になった。突然、ミシェルは、自分はもはやベッドに寝ているのではなく、宇宙を浮遊していることに気づいた。ミシェルは振り返って、地球を探したがそれははるかかなたであった。ミシェルはまわりの巨大な空間に圧倒されパニックに陥りつつあったが、いきなり、バタンと音をたててベッドに落下した。身体中が冷たい汗にまみれていた。ミシェルは自分が生体離脱を経験したことに気づいたが、それは心地の悪い経験であった。
 もうしばらく、地球にとどまっていたほうがよさそうだ、ミシェルは思った。
 翌朝、ミシェルが高山の希薄な空気の中を散歩していると、突然目からうろこが落ちたように、目の前に世界が開けそのありのままの姿が見えた。それまで希薄だった山の空気は観念にあふれて芳醇なものとなった。混沌から実質と観念が生まれ、実質と観念からこの世が成り立っている。時間は、実質と観念にまたがる三次元の事象である。この世とは驚くべき相互関係による創造物なのだ。ミシェルにこの世の無数の因果関係が明かされた。この発見に衝撃を受けたミシェルは、酒に酔ったように山道をフラフラとさまよった。ミシェルのカウザル・ボディーがまさに働き始めたかのようであった。
 月が満ちる前にお前の眠っている知能目覚めるが、そのためにお前は黒死病によって良心の呵責を知らねばならぬ、ミシェルはヘルメスの言葉を思い出した。
 それは、家族がぼくの犠牲になったということか? ありのままの真実、人間には耐えがたい真実とはこのことなのだろうか? この新たな認識にミシェルは胸が痛み身も縮まる思いであった。
 神には慈悲がないのか? ミシェルはうめいた。もし、ぼくの家族がこのゲームの歩兵だったとしたら、ぼくはいったいなんなのだ。ぼくらは人形芝居のあやつり人形にすぎないのだ。それは過酷な現実であり、ミシェルは一瞬、全能の創世主に激しい怒りを覚えた。
 神を恨むなんてぼくは背徳者だ、ミシェルはすぐに思い直した。ぼくは人類という大きな鎖の中のちっぽけな輪の一つにすぎない、彼は憎悪をぬぐい去った。与えられた役割を演じよう、そして自分の殻を振りはらうのだ。
 予言者としての再出発を決心したミシェルは山頂をめざした。ミシェルの脳裏に様々なお告げがうかんでは絶えず形を変えて、ミシェルの六感を惑わせ、ミシェルは考えをまとめることができなかった。その心のうちをなすがままにまかせ、突き出した崖をめぐると、ポーの町の北に美しい地形が広がっていた。そこでまた別なお告げが頭にうかんだ。ポー ネー ロロンは血よりも火になるだろうパンポン デュランスが彼らを幽閉しつづけるだろうこの謎のお告げには、新たなシンボルとイメージがともない、ミシェルはめまいを覚えた。
 ぼくは、もう一度、自分の足で歩くことを学ばなければならないだろう。

 翌日、ミシェルは、ピレネー山脈からポーの町へ下った。役場を訪れ、パンポンとデュランスという名前について問い合わせるためだ。町役人は、ノストラダムスを事務室に招き入れたが、むさくるしい格好のミシェルは、念のため医師である証明書を見せた。
「申し訳ありませんが、わたしではお役に立てません」役人は言った。
「もしかすると、市長なら知っているかもしれません。あちらにおかけになってお待ちください」
 ミシェルは待合室のベンチに腰をおろした。待合室では、職人が粘土をこねて像を作っていた。ミシェルはその作業をしばらく遠くから見ていたが、やがて、その職人と言葉をかわそうと彼に近づいた。
「なにを作っているんだ?」
「聖なる処女マリア像だ」男は気がなさそうに返事をした。
「型には何を流し込むのだい?」
「青銅だ」
 ミシェルは再び、待合室のベンチに腰をおろしたが、しばらくすると、処女マリア像を作っているにしてはなげやりな職人の態度に怒りを覚え、我慢しきれず立ち上がって職人のもとへ歩いていった。
「この調子では、聖処女マリアというより悪魔の像のように見えるのだがね」とミシェルが批判すると職人はひどく腹をたてた。
「おまえさんのことは当局に報告せにゃならん」男は怒鳴ったが、ミシェルは動じなかった。
 ようやく市長が現れ、ミシェルを市長室に招き入れた。
「パンポンとデュランスですか」市長は考え込みながら言った。「デュランスは川の名前ですが、記録を見てみないと。来週また来ていただければ、なんらかの情報をさしあげることができるかもしれません」
 翌週、町役場を訪れたミシェルはいきなり襟首をつかまれた。当局は、ミシェルを冒とく罪で告発していたのだ。ミシェルは法廷に出頭しなければならなかった。法廷でミシェルは、職人に批判的なコメントを述べたことは認めたが、それは職人の無知を批判したのであって処女マリアを批判したのではないと弁明した。
「証人はいるかね?」判事がきいた。
「残念ながらおりません」
「それでは、きみの反論は認められない。ここに、ネー刑務所で一週間の懲役を命じる。これは寛大な判決だよ」
 有罪判決を受けたミシェルは手錠をかけられ、工事中のネー刑務所の代わりに、ロロンの刑務所に連れて行かれた。
「科学者を収容したのは初めてだ」刑務所長が言った。
「ぼくが逃げ出す前に水とパンをくれた方がいいですよ」ミシェルが素っ気なく言うと、刑務所長は笑った。
「3日後には、パンポンがわたしと交代するが、きみのユーモアを聞けなくなるのは残念だ」
「ユーモアはわたしの得意とするところではありません。ところで、あなたのお名前は?」
「デュランスだ!」

 釈放後、ミシェルはシャラントの森の小道をさまよい歩きながら、彼に天から与えられたお告げが持つ象徴的な意味を考えていた。
 これらのお告げを占星術と結びつけたどうなるのだろう? 一、二日の誤差でその日付を正確に予言することができるだろう。
 ミシェルがぶかぶかのズボンを引き上げようとかがんだところに、ブナの木が「木が一本、倒れるぞ」と告げた。ミシェルは警戒して、一歩ずつ注意深く歩を進めた。すると彼のすぐ目の前で栗の木が倒れた。
「ぼくをその気にさせようというつもりかい?」ミシェルは、独り言を言いながら、倒れた木をまたいだ。そしてこの現実となったこの予言を熟考し、その精度を検討し過去の予言と比較した。
 短期の予言は猟犬の嗅覚のようなものだ、しかし象徴的なお告げを理解するには、もっとその主題について知識を得なければならない。子どものころの白昼夢を記録しておかなかったことは失敗だった。これからはすべての予言を記録して機会をみつけて現実との関係を見出そう。

 しばらく放浪の旅を続けるうちに、ミシェルは行商人からノルマンディー沿岸の町フェーカンの修道院には、いい宿坊があり、そこの修道士は情け深いという話を聞きつけた。
 しばらく静養するにはうってつけの場所だろう。ミシェルはその勧めに従って、白亜層の崖のふもとにある修道院を訪れた。そこは、敬虔なベネディクト会の修道院で、紀元六世紀の聖ベネディクトゥスの戒律が今でも守られている。
 ミシェルは、自分の意思を表すかのようにカバンを地に投げ出した。修道士マビヨンがミシェルに近づき、自分がミシェルの役に立てることがあるかたずねた。
「ここにしばらく滞在したいのですが」ミシェルが答えた。黒い修道服に身を包んだ修道士の一団がゆっくりと彼の背後を通り過ぎた。
「それは構いません。我々は客人にも敬虔に戒律をお守りいただくようお願いしています。言いかえれば、我々と寝食を共にし、いっしょに働いていただきたい」
「それは願ってもないことです。わたしは心から秩序を必要としているので」ミシェルはうきうきとして言った。
「簡単なことではありませんよ」修道士がミシェルをたしなめた。「全員が、朝の七時から夜の七時半までまじめに働き、その後は説教に参列しなければなりません。そして毎偶数時には短い祈りを捧げます。一週間に七日間毎日のことです。それから朝食は六時です」
「たいへん結構です!」
「一日うちには、自由時間も与えられます」修道士は話を続けた。
 修道士ブノワ・マビヨンはミシェルに部屋を割り振り、その後二人は正午の祈りを捧げた。夜には自由時間があり、ミシェルはマビヨンの新たな一面を発見した。マビヨンは反体制的な傾向があり、その上陽気な修道士であった。
「我々の指導者、ベネディクトゥスは現世の富や誘惑を否定していました」マビヨンは語った。「もちろん我々もそれは同じことです。でも、わたしのつくったハーブ飲料をぜひ飲んでみてください。アルコールがたっぷり入っていますよ」
「そりゃあ、楽しみだ」
 すぐに二人はマビヨンの部屋へ戻り、マビヨンは上機嫌でお手製の飲み物をミシェルについだ。
「これは、最高だ」それを一息に飲み干しミシェルは言った。
「わたしもそう思いますよ。世界中から集めた二十七種類の希少な植物とハーブを混ぜているのです」マビヨンは自慢した。
「コクがありますね。ぜひ作り方を教えて頂きたい。あなたのハーブの知識はいずれ病気の治療に役立つでしょうから」
「構いませんよ。明日、晩鐘の後、台所で作り方をお見せしましょう。我々は、自分たちのためだけではなく、すべての人々のために祈りを捧げます。それと同じことで、我々の知識を広めることはいといません」
 やがてマビヨンはミシェルにハーブの識別方法と処理の仕方を教え、ミシェルは彼に古文書の解読方法を教えた。
「ご覧なさい、ここに占星術の書がありますよ。あなたの専門分野だ」二人が修道院にある書物のコレクションを調べていると、マビヨンが言った。ミシェルにとってこの情け深い修道士との友情は時を得たものであった。人生の無常にさいなまされてきたミシェルは、いま少しずつ癒されている。冬が終わるまでこの修道院の厳しい規則に忠実に従って過ごそうとミシェルは決めた。

ある午後の休み時間にミシェルは高い崖の上に座って、大西洋のかなたの水平線を見つめていた。イギリスの海岸もそう遠くはない。心躍るロンドンの町が水平線の向こうにあると知っていても、ミシェルにはドーバー海峡に向ってうねる波しか見えなかった。カモメの甲高い鳴き声がミシェルの注意をひいた。カモメは、引き網漁を終えて帰港する漁船を追いかけていた。
 突然、ミシェルは英国から予言を授かった。英国で悲劇が起きる。しかし、その悲劇とは? まだミシェルにはわからない。ミシェルはマビヨンから借りた書物で、占星術の表を調べた。
 今の星の配置と同じ配置は1666年に再び巡ってくる、風がページをはためせている間もミシェルは計算した。ペンを握りしめりながら、ミシェルは来るべき悲劇を直観していた、その実態ははっきりしなかったが。
 この方法では時間の計算結果に幅がありすぎる。正確な測定具を買わなければならない。
 次に、ミシェルは観念とその隣に計算を暗号化して書きとめた。
 これがそのまま恐るべき狂信者の手に渡ったら、ぼくは困ったことになるぞ。それはもう身にしみてわかっていた。

その夜、充実した一日に満足してミシェルは床についたが、朝の祈りが始まるしばらく前にその眠りからたたき起こされた。少なくともミシェルはそう思った。
「火事だ!」叫び声が聞こえ、厚い煙がミシェルの部屋に充満していた。ミシェルは驚きのあまりベッドから転げ落ち、階段をかけおりた。階下は炎におおわれ、それは消しようもない。
「イザベル、どこにいるんだ?」ミシェルは混乱して叫んだが、ゆっくりともうイザベルはこの世にいないことを思い出した。一階には、厚い煙を通して、白熱してひびいった石の窯が見えた。そして床には破れた小麦粉の袋が散乱している。
 ここは、修道院じゃなくてパン屋だ。ぼくは夢をみているんだ!
 突然、行く手に大きな炎があがり、ミシェルの考えを妨げた。反射的に炎を避けながらもミシェルは、夢の中でもやけどをするのだろうか? と疑問をいだいた。そして、果敢にも振り返って、その手を火にかざした。
「あちち!」ミシェルは痛みに悲鳴をあげて外に逃げ出した。
 それでも、やはりこれは夢だろう。
 まわりの建物もことごとく炎の海に包まれていた。ミシェルは、安全なところからそれをながめていた。いったいぼくはどこにいるのだろう。パン屋の向かいに印象的な橋が見えた。あの橋は絵で見たことがある、ロンドンのタワーブリッジだ。
「そこにつっ立っていないで、手伝ってくれ!」いきなり英国人が叫んだ。
 彼の話す英語が理解できるぞ、ミシェルは驚いた。夢の中では、人は言語を超えて心で話すのだろう。
 しかし、ミシェルは彼らに手を貸すつもりはなく、ただ傍観者としてその光景をながめていた。ぼくはタイム・トラベラーであってロンドンっ子じゃない。
 火事は、川岸に連なる軽くて燃えやすいものを貯蔵している木造倉庫に勢いよく燃え広がった。火消しが火事場に急行したが、タワー・ブリッジの脇の水車はすでに燃えつき、水の供給は止まっていた。もはや、火事を食い止めることは不可能だ。たえまなく吹き荒れる風に、火は行く手の町並みを焼きつくし、いまや市の中心部と河岸に燃え移っている。ミシェルは夢うつつで炎の海のあとを追い、町の中心部にやってきたが、その高級住宅街にも火の手はせまっていた。火消しは、密集した家並みを叩き壊しはじめた。水が足りないので火の手をおさえるにはそうするしかないのだ。
 町の半分以上を焼くつくし、壮麗なセントポール大聖堂をも焼き落とした後、ようやく風がおさまり史上最大のロンドン大火はゆっくりと鎮火した。古いロンドンの町は煙とともに消え去った


 それから一年後、ストラスブールにて。放浪の旅を続けているミシェルは、激しく降りしきる雨の中、ある酒場に入っていった。そこでは、労働者たちが音楽にあわせてビールジョッキを振りながら、胸もはりさけんばかりに土地の民謡を歌っていた。「飲めや、この世の憂さを忘れ心いくまで。おいらはビールで飲んだくれ。ルネとジョッキ一杯、ルノーと樽一杯」
 陰気なミシェルでさえ、ほろ酔いかげんで陽気な大勢の人々の顔を見て、ほほえまずにはいられなかった。楽団は、ポータブル・オルガン、笛、サックバットなど、いろいろな楽器を演奏していた。次の戦いの歌にはタンバリンも加わった。
「もう一杯飲もうぜ」だれかがどなった。ミシェルは、飲んだくれの一団のテーブルに加わり、その団結を祝して一パイントのビールを注文した。次の歌は「かわいた喉のしらべ」だった。
 一時間ほどするうちに曲のムードが変わった。ヴィオラが聴衆を恍惚へといざない、あやしい雰囲気が漂ってきた。なまめかしい服装の女たちが現れ男性客を挑発している。男たちは女たちに流し目を送っていたが、ミシェルは興奮する男たちにはつられず、冷やかにそれをながめていた。彼はそんな女たちにまるで興味がなかったのだ。
 酒場の反対側にひときわ目立つ老人がミシェルの目にとまった。ミシェルは、その老人に見覚えがあった。ベレー帽をかぶった白髪の老人は、若い貴族の男の連れと夢中になって話をしていた。あいにく薄暗い灯りに彼らの顔がよく見えないので、好奇心をそそられたミシェルはそのそばに近づいた。近くから見ても、ミシェルはそれがだれか思い出せなかったが、突然、老人がミシェルに目を向けるとようやくミシェルはひらめいた。わかったぞ。
「何か御用ですか?」老人はきいた。櫛目の通ったカールがベレー帽からはみ出していた。
「エラスムスさんとお見受けしますが」ミシェルは答えた。オランダ人の学者であるその老人は驚いて喜んだ。
「わたしを知っている人がいるとはうれしいかぎりだ。きみは?」
「わたしは、医者のノストラダムスです」そう答えながら、ミシェルは、偉大な思想家が甲高い小声であることがおかしかった。
 エラスムスはミシェルを見てしばらく考え込んでいたが、その名に心当たりがないようだった。
「こちらは、ド・フロレンヴィル侯爵だ」エラスムスは連れを紹介した。
「座りたまえ」侯爵が言い、ミシェルは礼を言って腰をおろした。
「そうだ、ようやく思い出したぞ」エラスムスが大声をあげた。「イタリアに旅した時にきみのことを聞いたことがあるぞ。ペストが大流行したときに、家に閉じこもるよう教皇に助言した医者はきみだろう?」
「そのとおりです。わたしはユリウス・スカリゲルの家であなたの肖像画を拝謁する機会にめぐまれました」
「ああ、スカリゲルか」エラスムスはため息をついた。「彼の手紙に返事を書かねばならん」
 ミシェルとエルスムス、二人の学者の間で会話がはずもうかというとき、二人の売春婦がテーブルにやってきて、ミシェルに目をつけ彼を誘惑しようとした。みだらな売春婦は、はずかしげもなくミシェルの膝の上にすわり彼の髭をなでた。まわりの人々はこの見世物を遠まきに見ていた。同席するエルスムスと侯爵もミシェルがどう彼女たちを扱うか興味深く見守っていた。
「きみはもてもてだね」ド・フロレンヴィルが茶化したが、ミシェルは女たちに目もくれなかった。女たちはミシェルの額にキスし、その胸をミシェルの顔に押しつけて挑発した。ヴィオラの音だけが聞こえ、人々は椅子から身を乗り出した。しかし、苦行の末に禁欲者となったミシェルは、好色に身をまかせるつもりは、さらさらなく、彼女たちの耳になにかをささやいた。それを聞くやいなや女たちは悲鳴をあげて逃げ去った。だれも言葉もなく、にぎやかだった酒場は気まずい沈黙にとざされた。そこで酒場の亭主は楽団にその場を盛り上げるよう言いつけた。すぐにお祭り騒ぎがもどってきた。
「いったい、あの女たちに何をささやいたのかね?」エルスムスとド・フロンヴィルは興味津々でたずねた。
「きみたちは一週間のうちに性病で命を落とすだろう、と言ったのですよ」ミシェルは素っ気なく答えた。エラスムスは大声で笑った。
「あのつまらない奴らを追い払うのには、きみのそのまじめな顔でそんなことを言うほど痛快なことはないな。だれも冗談とは気づかなんだろう」
「冗談ではありませんよ」ミシェルが言った。ド・フロンヴィルはそれを聞いてショックを受けた。ミシェルの言葉はひどくけがらわしく思えたのだ。
「きみ、医者はそんなことをしてはいかんよ。君が言ったことは診断ではなくて呪いだよ」
「これは呪いではなく、現実に起こることを予言したのです。わたしは真実しか申しません」ミシェルは答えた。
「予言だって? キリスト教では予言など禁じられているはずだ」ド・フロンヴィルは冷やかに言った。
「では、聖書の中の一節を指摘いたしましょう、侯爵閣下。ヨエル書で神は、民は予言と先見の明を授かるべきであると言っています。アモス書には、予言者への神の裁決が示された、と記されています。また、申命記では、神が超自然的な学問を糾弾したとされていますが、占星術はそれに含まれていません。また、ヘブライ人への手紙では、すべては飾ることなく明かされるべきであると述べられています。続けましょうか? 侯爵閣下」
 侯爵はその高慢な鼻をへし折られ、口をつぐんだ。
「わたしは子どもの頃から、先見の明にめぐまれていましたし、占星術を学びました」ミシェルは強調した。ド・フロンヴィルは、学識豊かな友人エルスムスが助け舟をだしてくれることを期待していたが、彼は無言のままであった。
「それについて、わたしは何も言うことできないな。わたしは未来を予言する能力がないから、自分の経験からしか話すことができないよ」ド・フロンヴィルは、気難しい表情でまっすぐ前を見つめて言った。
「偏見を捨ててくれればいいのだが」ミシェルはつぶやいた。
「宗教戒律に女性は弱点だ」エラスムスが言った。「教養人ですら上手くまるめこむし、自分の伴侶についてすべて話てしまうし。」
「わたしは、女性に同調する気は毛頭ありません。噂話ばかりしているだけですよ」ミシェルはエラスムスに同意した。
「あのご婦人たちはきみを見損なっていたね。きみは特別だよ。悪い意味でではない。ところで彼女たちはどこへ行ったのだろう?」エラスムスはきいた。女たちはすでに戻ってきていて騒いでいたが、ミシェルたちのテーブルには近寄ろうともしなかった。
「無知というのは幸せなもんだ」エラスムスは続けた。「ちょっとしたお世辞ですぐまた喜んで、自分たちの運命を多くの人たちとわかちあっているよ」
 会話は他の話題に移った。ロッテルダム生まれの思想家エルスムスは七十歳であった。そのころの平均寿命は三十五歳くらいであったから、それはまれにみる老齢といえる。エラスムスはバーゼルへの旅の途中であった。
「それでは、ストラスブールは中休みといったところですか?」ミシェルがたずねた。
「まあね。明日、市庁舎でこれまでの人文学者としての業績を表彰されるのだ。それに、ド・フロレンヴィル閣下とは、人文学者のジャコブ・ウィンフェリングのグループで知り合って以来長いつきあいだ。ウィンフェリングとはこれまで何回も討論を重ねているのだよ」
「ストラスブールは、ウィンフェリングのおかげで文芸の重要な中心地となりました」ド・フロンヴィルは機嫌を直して言った。
「そのとおりだ。そのおかげできみと知り合いになれたし」エラスムスが同意した。「以来、ド・フロンヴィル閣下とは連絡をとりあい、わたしがこの町にくると、いつでも喜んで泊めてくれるのだ」
テーブルを囲んだ三人は夜更けまで話こんでいた。とうとう、亭主がまもなく閉店であることを告げると、三人は最後のビールを飲みほした。外に出て澄みわたった夜空の下で別れを告げるとき、年老いたエルスムスは予言能力を持つ医者ミシェルといつか再会したいと言った。
「残念ながら、それはあまり期待できません」ミシェルはエラスムスはその夏に死ぬと予知していた。その暗示を理解したエルスムスは、自分の運命を受け入れ、二人は互いにかたい握手をかわした。ミシェルが驚いたことにド・フロンヴィルはミシェルを彼の城に招待した。なんのしがらみもないミシェルはその招待に応じることにした。とどのつまり、人生を経験するためにこの世にいるのだから。

 一週間後、ミシェルは洒落た馬車に乗り、ストラスブールに近いロレーヌにあるド・フロンヴィル城へと向かっていた。御者はなかなかその城を見つけることができなかった。城は人里離れた深い森の中に隠れていたからだ。広大な所有地の入り口には門番小屋があり、そこで御者はミシェルの到着を知らせた。門番は何もきかず、高い門扉を開けて、客人ミシェルをのせた馬車を前庭に通した。さらに数分進むとようやく木々の間に城が見えた。城は堀に囲まれた小島に建っていた。馬車が跳ね橋をわたり、城へ続く階段の前に止まると、すぐにド・フロンヴィルが姿をみせた。
「ノストラダムス先生、ようこそお越しくださいました」ド・フロンヴィルは歓迎するふりをしていたが、まだ、エラスムスの前で恥をかかされたことを根に持っているのは一目瞭然であった。
「まずは、庭をご案内しましょうか?」ド・フロンヴィルが提案した。
 ミシェルは、手足を伸ばしたいと思っていたのでその提案を受け入れた。ド・フロンヴィルはすべては順調であるかのようによそおいつつミシェルをブナの木で作られた迷路に案内した。
「あなたのお城はすばらしいですね」ミシェルは言った。ド・フロンヴィルは礼を言いながらも意地悪いアイデアを思いつき、彼の心は風とともに浮き立った。
 ノストラダムスのうわさの予言能力というやつをからかってやろう、ド・フロンヴィルは意地悪く考えた。わたしの客みんなの前で、その正体を暴いてやる。
 二人は迷路を通り抜けた。迷路の真ん中には小さなマルコ・ポーロの像が立っていて、迷路の終点であることを示していた。それから、二人は回転扉を通って、幾種もの果樹が植えられた果樹園に入った。次にド・フロンヴィルはミシェルを様々なめずらしい野菜が植えられた野菜畑に案内した。その隣には小屋がいくつかあり、そのうちの一つに豚が飼われていた。黒豚と白豚だ。
「ノストラダムス先生」ド・フロンヴィルは、突然、尊大な態度で話しかけた。「あなたは透視能力がおありだということだが、この二匹の豚のどちらが今晩の夕食になるか、予言していただけませんか? コックにはなにも言わないとお約束しますよ」
 ペテンくさいが、ミシェルは迷いもせずに答えた。「我々は、今晩夕食に黒豚を食べるでしょう。白豚は狼に食われてしまいますから」
 城に戻ったド・フロンヴィルは、すぐに台所に出向いて、ノストラダムスとの約束を破り、コックに夕食用に白豚を屠殺するよう命じた。
 コックは白豚を屠殺し串に刺した。台所で忙しく働いていたコックは助手を呼んだ。「グラヌイ、庭からハーブを摘んできてくれ」返事がないのでコックはグルヌイをさがしたが、グラヌイはどこにも見つからず、コックは自らハーブを摘みに庭に出た。そのすきに、嗅覚の鋭いオオカミがやってきて、開いたままの台所の扉から忍び込み、豚をくわえて逃げ去った。戻ってきたコックはそれを知って腹を立てたが、主人には内緒にしておこうと決め、黒豚をつかまえて屠殺し、やっとのことで夕食に間に合わせた。
 名士ばかり招いたド・フロンヴィルの客は、客間で夕食を待ちながら会話を楽しんでいた。
「ウィンフェリングの本を読んだことはおありかな?」貴族の一人がミシェルにたずねた。
「いいえ、科学論文を読むのに忙しかったものですから」
「彼の本を読むことをお勧めしますよ」
「ありがとうございます。心に留めておきます」ミシェルは礼儀正しく答えた。
 ド・フロンヴィルが客を歓迎して、テーブルのそれぞれの席へつくように言った。客は会話を交わしながら、二、三皿の前菜を食べたが、メイン料理が給仕されるときがくると、ド・フロンヴィルが客の注意を促した
「今宵の美しい宴をさらに知的な境地へと高めるために、ここで、わが友、エラスムスの言葉を引用させて頂きたい。「真の幸福とは、我々が作り出す想像の世界にのみ存在する」わたしは、エラスムスのこの言葉に深く感服しているが、今宵はそれを脇において夢を見るのは愚か者にまかせようではないか。これから贅をつくしたメイン料理をお出しするが、この料理で至福の味をご賞味いただきたい。ところで夢といえば、今夜は名高い予言者にご臨席の賜っていることをお知らせしたい」客はド・フロンヴィルが誰のことを話しているのかと互いに顔を見合わせたが、当のミシェルは悠々とかまえていた。ド・フロンヴィルのミシェルを笑いものにしようというたくらみにすぐ気づいたからだ。
「それは、ノストラダムス師である」ド・フロンヴィルは明かした。ド・フロンヴィルの声に批判的な響きがあることに気づいた客は、落ち着かなかった。
「さて、今日の午後、わが客人には、本日のメイン料理を予言していただいた。わたし個人的にはそんなまやかしは信じないが、彼の予言があたったかどうか確かめてみようではないか。それでは、ノストラダムス先生、今晩のディナーには白豚、黒豚のどちらが供されるかあてていただきましょう」
「黒豚です」ミシェルは一歩も引かなかった。
 ド・フロンヴィルはコックに蓋がかかった皿をテーブルにのせるよう合図した。運命の瞬間だ。ド・フロンヴィルは蓋をとった。ド・フロンヴィルが落胆したことに、それは黒豚の料理であった。
「これは、黒焼きにした白豚か?」ド・フロンヴィルは必死にたずねた。
 正直なコックは、自分の過ちを認め、白豚は狼に取られてしまったので黒豚を料理しなければならなったことを白状した。
 客たちは、自らの罠にかかってしまったド・フロンヴィルを心底笑った。一方、ミシェルは客の賞賛を集め、ド・フロンヴィルは、ミシェルの方に目をやろうともしなかった。
 一躍人気者になったミシェルには、数週間この邸宅で豪奢な生活を楽しんだ。ド・フロンヴィルが我慢の限界に達してミシェルに立ち去るよう命じるまでは。
 その翌日、ミシェルはあてもなく、だが惜しむこともなく城を出た。


 この贅沢で気ままな生活の後でミシェルは、俗世のあかを落とそうとアルプスの山に向かった。そして、その澄んだ山の空気とスイスの雄大な自然をこころゆくまで味わった。ミシェルは自分の心がさらに大きく広がり、洞察力も深まりつつあることに気づいた。しかし苦しみと喜びは背中合わせで、その成長は心痛をともなうものでもあった。
「なぜ人は喜びを得る前に苦しまなければならないのだ?」たったひとりで山の中の湖をわたりながら、ミシェルは声を上げてきいた。しかし、彼がはしけをこぎ進める間も湖は静寂につつまれていた。
 まあ、その答えは聞くまでもない。我々は若いころには自らの能力を顧みず無駄に過ごし、歳をとってからその能力を取り戻そうと躍起になるのだ。
「山の神よ、教えてくれ。なぜ赤子はすべてを持って生まれてくるのだ。いずれは楽園から追われる運命なのに?」
 しかし、山はその秘密を明かさず、ミシェルはこの人生の不条理に自分で答えを出すしかなかった。ミシェルはそのあるがままの存在だけで、創造主の意に従って生きることのできる植物や動物に羨望を感じていた。しかし、資質とは自分で作りだしてはじめて価値があるのだと自分自身を慰め、いつか自分の能力によって、ありのままの真実を見ることができるようになることを心から望んだ。
 山を一歩一歩登るうちに、ミシェルは少しずつ人生の喜びを再発見し、それを心から味わった。山頂への険しい道のりは、美しいパノラマと澄みゆく心で報われた。
 ミシェルはウォリスでローヌ川を渡った。
「ぼくが行くべきところがわかったぞ」ミシェルは自分の精神的探究の旅の先を見出した。「イタリアだ」
 そして、ミシェルは教会の支配下にあるイタリアへ向かって一人旅を続けた。

 数週間後、ミシェルは、ペルジアの近くの山道で修道士の一行と出会った。その灰色の僧服を身につけたつつましい外見から、彼らはフランシスコ会修道士であることがわかった。フランシスコ会修道士は、清貧こそが神に近づく道であると説いたアッシジの聖フランシスコを信仰している。
 一行が近づいてくるとミシェルは脇によけて道をゆずり謹んで頭を下げて彼らを見送った。その時、ミシェルの目の片隅に一人の修道士の姿が映った。突然、彼の心の底から讃美の気持ちがわきあがり、ミシェルは驚く修道士の足元にひれ伏した。ミシェル自身も自分にあふれる信仰心に不意を突かれていたが、自分が卓越した人物に巡り合ったことを確信していた。
「頭をお上げください、わたしはただの修道士にすぎません」若い修道士は言ったが、ミシェルの目には彼の目の前にいる人物の真の姿がはっきりと見えた。
「わたくしは神聖なあなたの前にひれ伏すしかありません。あなたは、貧しい豚飼としてお育ちになり、今はつつましい修道士でいらっしゃいますが、いつか、あなたのお名前はローマのサン・ピエトロ大聖堂の頂点に金文字で輝くことになるでしょう。将来、あなたは教皇シクストゥス五世になられます」
 驚いた修道士はうかがいをたてるように同輩を見回したが、彼らもこの言葉をどうとらえていいか分からなかった。
「親愛なる我が友よ、すべての道ローマに通じます。われわれに神のご加護がありますように」修道士は言い、修道士たちは歩み去った。


 長い間、自己批判にさいなまれてきたミシェルは、心の安らぎを求めて豊かなベニスの町にやってきた。違う景色を身を置くことは悪いことではあるまい。
 ベニスの黄金期はすでに過ぎ去り、今やその領土を失いつつあった。しかし、この西欧最大の港町はミシェルの好奇心をそそった。有名なマルコ・ポーロとコロンブスはこの町で育ったのだ。ちょうどコロンブスがアメリカを発見したばかりであった。
 ミシェルは小さな漁船に乗って、数多くの船が係留、投錨しているこの巨大な港に到着した。長年に渡って、異国の絹、香辛料、珍しい宝石などの積み荷がこの港を経由してヨーロッパ各地に運ばれている。ミシェルはカバンを手に岸に飛び降り、うず高くつみあげられた中国語やアラビア語の文字が書かれた麻袋や木箱の脇を通り過ぎた。
「ここは活気にあふれているな」ミシェルは声をださずに笑った。
 深い霧に隠れ、おびただしい数の宮殿や教会そして運河はほとんど見えなかった。ミシェルはすぐに簡素な宿屋を見つけ、荷物をおろした。そして町を見物しようと宿屋の古びた階段を下りていくと、「旦那、鍵をお忘れですよ」と亭主に呼び止められた。
「鍵はいらないよ」ミシェルは流暢なイタリア語で答えた。「なにも心配していないから。ところでゴンドラを雇いたいのだが、どうすればいいのかい?」亭主は、彼の甥がゴンドラでベニスの町を案内してくれるだろうと教えてくれた。
 しばらくして、ミシェルはゴンドラに乗って、ベニスに張り巡らされた運河とそこに架かる数多くの橋を見物していた。
「どこかに行く途中ですかい?」船頭がきいた。
「どちらとも言えないよ。しばらくベニスに滞在しようかと思っている」ミシェルは答えた。
「そりゃあ、いいご身分ですなあ。そんな時間と金と自由がある人は多くないっすからね」
「その通りだ。だが、デカダンスとは程遠いがね」
 ためいきの橋の下を通りかかると、船頭は愚痴をこぼし始めた。
「おれの夢は実現していないっすよ。昨夜なんか、また悪い夢を見た……」だが、ミシェルは彼の愚痴など聞きたくなかったので、せわしく往来する船に注意を払うよう促した。
「ここが、メインの運河、グランドカナルだよ」自分の仕事を思い出し船頭が言った。「そして、向こうに見えるのがリアルト橋だ。」
 しばらくして、ミシェルはこれまでみたこともないほど美しいドゥカーレ宮殿を見て、そこでおろしてくれるよう船頭に頼んだ。
「もうすぐカーニバルだ。行ってみるといいよ」別れ際に船頭はミシェルに勧めた。
「いや、カーニバルに興味はないね」堅物者のミシェルは答え、硬貨をゴンドラの銭袋に投げ入れて、宮殿の背後へと消えた。総督はこの宮殿からベニスの町を支配しているのだ。

 町には音楽が流れていた。ノストラダムスは本を置いた。気分転換も悪くない、ミシェルはカーニバルを間近に見物しようと宿を出た。
 通りでは、ベニスっ子がカーニバルの仮装をまとい、群れをなして浮かれ騒いでいた。彼らは、仮面で顔を隠していたが、その仮面は、有名な学者を風刺したもの、贅沢な商人、道化や挑発的な娘などいろいろであった。
 明日になったら、悪夢を見たと彼らはまた愚痴るのだろう、こんなお祭り騒ぎをしても心を晴らすことはできないのだから、ミシェルは つぶやいた。
 この夢のような見世物はサンマルコ広場で頂点に達していた。大広場は、そこかしこから音楽が流れ、お祭り気分の人々でいっぱいで身動きがとれなかった。人ごみの押し合いへしあいを避けて、ミシェルは高いライオンの柱を回って水辺にそって広場を抜けだした。
 ミシェルが少しは静かな中庭にたどり着つくと、そこで風変わりな女性を見かけた。彼女は、ダビデの星を首に飾り、色ガラス細工の蝶々のまわりで遊ぶ子どもたちに囲まれていた。あれは、グノーシスの蝶々だ。ミシェルは興味津々で彼女に近づいた。
「きれいな蝶々ですね」ミシェルは声をかけたが、その声はあたりのざわめきにかき消された。その女性は、ミシェルが近づいてくるのを見ると黙って悪魔の仮面をミシェルに手渡した。
 ぼくもパーティの仲間入りしろという意味だろう。ミシェルは、進んでマスクをかぶった。ミシェルがマスクは似合っているかたずねようとした瞬間、その不思議な女性と子どもたちもみんな、魔法のように姿を消した。ミシェルはあたりを見回したが、その視界は大勢のパーティに興じる人々にさえぎられた。
 彼女が古びた図書館の隣りに立ち、彼に向って手招きしているのを再び見つけたミシェルは、驚いて開いた口もふさがらなかった。ミシェルは、群衆をかき分けていったが、彼が図書館に着いたときには、すでに彼女は影も形もなかった。ミシェルはまごついた。そしてまた、彼女と子どもたちが紙の門を踊りながら通り過ぎてくのを見つけた。ミシェルは再び群衆をかき分けて、中央の建物に向かった。しかし、その建物の中庭にたどり着いたミシェルが、見つけたのは、戦い神マースと海の神ネプチューンの石像だけであった。あわてて彼女の姿を探し求めた。
 見つけた! 彼女は巨人の階段を駆け上っている。彼女はミシェルをからかっているに違いない。
「これは、カーニバルの余興かい?」ミシェルは彼女に呼びかけたがその声はあたりの騒ぎにかき消された。
 ミシェルは、この謎を解明しようと決心した。そして、彼女の姿を追って路地をたどると、静かな一画に出た。不思議な女性は、今度は、子供たちと木の階段を踊りながら上り、沈みかけた太陽に長い影を落としている古めかしい家の中に消えていった。ミシェルは、雑草が生い茂り、井戸がある中庭に入りこんだが、その女性と子供の姿は見当たらなかった。
「だれかいるかい?」彼は声をあげたが、返事はなかった。ミシェルは中庭の奥に扉を見つけた。ミシェルはその扉を開け、別な中庭に通じる細い通路に入った。そこにはさらにいくつかの扉があった。
 ぼくはいったいどこに誘導されているのだろう? 最初の扉には「シャローム」(ヘブライ語の挨拶)と書かれていた。ミシェルがその扉を開けると、部屋の中央には、七本脚の燭台が置かれたテーブルがあった。子どものころに見たその燭台をミシェルはよく覚えていた。
「こんにちは、だれかいませんか?」ミシェルが呼びかけたが、答えはなかった。あの女性と子どもたちは宙に消え失せていた。
 突然、町中からトランペットの大きな音が聞こえたので、ミシェルは、何事かと、外に飛び出した。彼が、数分前に通ってきた路地には何も変わったことはなかった。けたたましいトランペットの音がまた聞こえた。その音はサンマルコ広場から聞こえてくるようであったので、ミシェルはサンマルコ広場に向かった。その道すがら、ミシェルは通りが空っぽであることに驚いた。仮装した市民が数人、恐れをなして逃げ回っているほかは町は閑散としていた。ミシェルはその一人を呼び止め、なぜ逃げているのかたずねた。
「カーニバル禁止のおふれたが出たのだ」男は口ごもった。
「総督の命令かね?」
「総督なんてもういないよ」男はそう言って立ち去った。ミシェルは急いでサンマルコ広場に行ってみたが、そこは、わずかにカーニバルの名残りをとどめているだけであった。ミシェルは用心深くあたりを見回した。ライオンの柱すらなくなり、そこには新しい像――英雄らしき男を乗せ後ろ脚で立つ馬――が立っていた。その名前は、ナポレオン・ボナパルトであった。
「その仮面の男を捕まえろ」だれかがいきなり叫んだ。ミシェルがふりかえると、フランス兵の一団が彼に向ってきている。無意識にミシェルは空に飛び上がって兵士から逃れた。
 時をおかずして、あたりは兵士であふれ、彼らは屋根の上のミシェルを指さした。
「屋根の上には長くいられまい」将校が言い、まわりの通りを通行止めにした。ミシェルは危険がせまったことを察知して海に向って、舞い上がろうとしたが、期待を反して重力に逆らえず落下し始めた。兵士の一団は、ミシェルを捕まえようと波止場に急行した。
 状況は悪くなる一方だ、落下しながらミシェルは歯を食いしばった。危ういところで、ミシェルは落下を食い止め、滑空して港に水しぶきをあげて飛び込んだ。兵士が彼の後を追ってきたので、ミシェルは水に潜り、係留されている船の間に隠れた。

 翌朝、ミシェルは、緑あふれるサン・ザニポロ広場で支離滅裂な夢を思い返していた。今回はまったく現実を見失い、それが一体いつのことであるのかわからなかった。町の賑わいに彼は惑わされていたのだ。
 ナポレオンという名前が記憶に残っていた。しかし、実際にこの皇帝が勢威をふるうのは今から数百年後のことだろう、ミシェルはそう見積もって日記に記した。
 すべての物事とすべての人はすでに存在し、この世に現れる機会を待っているのだと考えると、それは本当に驚くべきことだ。
 あの魅力的な女性はぼくに何かを教えようとしていたのか、それとも危険からぼくを守ろうとしていたのか? どちらにしても、危険はかわせた。
 これまでもしばしば、夢の中で空を飛んではいたが、未来に飛び込んだのは初めてだ。まだ自我にとらわれているとは残念なことだ。ミシェルはこの最も大事な時に失敗をおかしたことを残念に思っていた。
「旦那、明日はカーニバルの初日ですよ」突然、庭師がミシェルに話しかけた。ミシェルは、親しげにうなずいた。
 もし、ナポレオンの従者に捕まってしまったら、ミシェルは想像をめぐらせた。その足元に刈り取られた木の枝が落ちかかっている。いったいどうなったのだろうか? 未来でも安全を確保するには、夢の中でも周りにもっと注意を払わなければいけない。高く上がれば上がるほど、落下の衝撃はひどくなるのだから。木に登って枝を刈っている庭師が、落ちてくる大枝を避けるようにミシェルに声をかけた。
 いつ現実から夢に入り込んだのか? ミシェルはさらに考え込んだ。そして、今日から毎日、飛び上がって重力を試してみることにした。高次元の世界では、重力はほとんどないとミシェルは理解していた。高い次元に行けば行くほど重力は少なくなる。
 ミシェルは立ち上がって服についた木の葉を払い、広場を立ち去った。今のところ、場所によって予言が誘発されているが、いつか一つの場所から世界中どこへでも行けるようになるかもしれない。


 ベニスでの数か月が過ぎると、ミシェルは変化を望むようになった。彼はもっと旅がしたかった。彼は船会社を訪ねて、次に港を出る船に乗ることにした。
 三日後、ミシェルは荷物をまとめ、たった今ついたばかりで造船所の隣りに係留された三本マストの船に向かった。それは、ペルサエルト船長が指揮するオランダの商船で、通常は貨物のみを運送しているが、この航海では貨物が少ないので一般の船客も受け入れていた。
 ミシェルは船大工の一団をよけながら、船に向って歩いて行った。桟橋への渡り板では、船員が警備にあたっていた。
 そのプロビデンス号は、前世紀のグロテスクで不格好な船に比べて、スマートであった。ポルトガル人とスペイン人の間で新世界発見の気運が高まり、造船技術は急速な進歩を遂げている。
「おーい、船客のノストラダムスだ」ミシェルは当直の船員に呼びかけた。船員はミシェルに無愛想な一瞥を投げると、長い乗客リストを確かめ、オランダ語で話し始めた。ミシェルが身振りでオランダ語はわからないことを伝えると、船員は「ノストラダムスはない」と答えた。ミシェルはリストを見せてくれるように頼んだ。
「あったよ。これがぼくの名前だ」ミシェルは自分の名前を指さすと一字づつ発音して聞かせた。オランダ人は、鼻息も荒く、お金を出すように身振りで示した。ミシェルは船旅の料金を前払いすると渡り板を上った。
「ずうずうしいやつだ」彼は軽蔑してつぶやきながら、船に飛びのり、メインマストの脇で指示を待っている数人の乗客に向って歩いていった。
「あんたも、仕事でマルタに行くのかい?」おせっかいな男がミシェルにたずねたが、ミシェルはむっつり首をふった。そのベニス人はミシェルには取りつく島もないことがわかると、一人旅の女性とおしゃべりを始めた。
「いい船だよねえ、奥さん。この船を作るのに三ヵ月かかったそうだ」
「そんなに長く?」彼女はきいた。男は、ペルサエルト船長が注意を促すまで、とうとうと木材を研磨する方法を説明していた。

船長は、イタリア語で乗客を歓迎し、船はデルフトの磁器の荷揚げを終え、シシリアへ香辛料を運ぶために出帆することを告げた。この船は、最近にぎわうようになったアムステルダムから来ていた。オランダ人は、コショウ、ナツメグ、丁子、中国茶、コーヒー、砂糖、そしてもちろんチーズを商っている。
 そこへ、船員が船長を呼びに来きたので、彼はその場を立ち去った。
 この腐ったような匂いは突然どこからただよってきたのだろう? ミシェルは顔をしかめた。
 出帆の潮どきのようだ。船はもやいをといて、数艇の手漕ぎ舟に導かれて慎重に港を離れ、海門を通り過ぎると三角帆をあげて微風にのって海に出た。
 ミシェルは荷物を船室に運んだが、そこもいやな匂いがする。船員の一人が、この船はかつて奴隷を運んだこともあるとミシェルに教えてくれた。ミシェルは船倉の匂いのひどさに耐えられず、すぐさま外に出て新鮮な空気を吸った。
 甲板では、乗客が遠くにかすみつつあるベニスに名残を惜しんでいた。
 過去をふりかえるより将来を見るほうがぼくは好きだ、ミシェルは考え、自分自身に満足して甲板を船首に向ってぶらぶらと歩いて行った。
 船は舳先で水を泡立てながら進み、船首からは壮大な眺めを見渡すことができた。それは鳥になって海の上を飛んでいるかのようであった。しばらくそこでくつろいでから、ミシェルは船尾デッキに戻った。前方デッキにはペルサエルト船長が立っていた。ちょうど操舵手が船長から舵とりを交代したところであった。
 船長と話すにはいい機会だとミシェルは船長に向かって歩いていった。
「我々が船の針路を保っているか確かめに来たのかね?」ペルサエルト船長がきいた。
「もちろんです。すぐにサイレンのいる島に通りかかるので、あなたがサイレンの魅力にさからうことができるか知りたかったのです」
「ホメロスのオデュッセイアを読んだことがあるようですな?」
「ええ、ギリシャ語でだけですが」
「それは、それは、学者さんが乗船しているとは驚いた。わたしも読み書きができるが、本を読む時間はないのだ。無論、地図はいつも読んでいるがね。地図のコレクションを見に私の船室に来るかね?」

ミシェルは船長の申し出に応じた。そして二人は、話をしながら船で一番大きい船室に向って歩いていった。ペルサエルト船長は口臭がひどく、彼の船室にはその匂いがしみついていた。ミシェルは、アルコールで口をゆすぐよう忠告しようとしたが思いとどまった。次の機会にしよう、ミシェルは思った。
 船長は目の前のテーブルにアドリア海の海図をひろげた。
「見てくれ、これがイタリアの半島をまわる我々の航路だ」船長はミシェルに航路をたどって見せた。「このあたりでは海賊に注意しなければならない」
「いい地図ですね」ミシェルは言った。
「フランドルの地図師ゲラルドゥス・メルカトルが描いた地図だ。他にも彼の地図を持っているよ」船長は誇らしげにトランクから陸図と海図をいくつか取り出した。
「これらは現在の地図では最高のものだ」船長は続けた。「新しい図法で作られている。古い地図には間違いがたくさんあり、コロンブスはインドへの新しい航路を発見しようとして、間違った航路をたどってしまったと言われているのだよ」
「この地図があれば心強いですね」ミシェルは同意した。「でも、船の位置は星を使えばもっと正確に測量できますよ」
「もちろん、ヤコブの杖がなければ我々は迷ってしまうよ」ペルサエルト船長は笑いながら自信満々で言い、奇妙な格好の星の角度を測る器械を引き出しから取り出した。
「これを使えば、高度角だけではなく、緯度を測ることができる」船長が説明した。
「この器械は北極星に合わせるのですか?」ミシェルがたずねた。
「なるほど、君も天体のことがわかっているのだね」ペルサエルト船長はヤコブの杖をしまった。
「ええ、いくらかは……。天文学を何年も勉強しましたから」
「では、これはどう思うかね?」ペルサエルト船長は髭を生やした男が描かれたジョッキをテーブルの上に置いた。船長の顔を模写したものらしいが、似ていなかった。
「ええと、あまり好みではありませんが」ミシェルはバカ正直に答えた。ペルサエルト船長は少し機嫌を損ね、仕事に戻る時間になったことを隠そうとしなかった。しかしその前にミシェルを感心させようと銀貨のコレクション見せた。なるほど、銀貨のコレクションは素晴らしかった。ミシェルは船長に興味深いものを見せてもらったことの礼を言い、船室を後にした。そしてしばらく間、外で風にあたっていた。
 あたりが暗くなると乗客は寝床についたが、船は軽く上下に揺れていた。夜の間に波が高くなると船の揺れも激しくなった。ミシェルはこの揺れで眠ることができなかった。
 そのうちにミシェルは気分が悪くなった。そして船酔いに悩まされても何もできない自分に情けない思いであった。
 四日後にようやく船はイタリア半島を回って、シシリア島が水平線に姿を現した。
 ここで船を下りたほうがよさそうだ、ミシェルは考えた。ぼくは二度と船旅はしないぞ。
 その夜の夕食には、ハッツポットとよばれる奇妙な粥が出された。
「海獣よけによく効くんだ」船のコックはそう言って、みんなに大盛りの粥をふるまった。
「このあたりに海獣がいるのかい?」ジョセッペという名の男が恐れをなしてたずねた。
「もちろんだとも、先月なんかクラッケンから命からがら逃げなきゃならんかった。まるごと船も捕まえられるくらい巨大な海獣さ」
「ハッツポットを食べれば大丈夫なのかい?」
「海獣はハッツポットが大嫌いなんだ」コックが保証すると、ジョセッペはあわててハッツポットをかき込んだ。
「くだらん」伝道のためにマルタに向かうカソリックの司祭がさえぎった。「きみはそのハッツポットが嫌いだという海獣を実際に見たのかい?」
「いや、おれは調理場にいたので見なかった」コックは言い訳した。
「すべては、伝説をもとに恐怖心と無知から生まれた作り話さ」司祭が言い、テーブルについていた乗客たちは安堵の息をもらした。
「クラッケンとは、非常に長い脚を持つ巨大なタコじゃないのかい?」ミシェルがきいた。
「そのとおりだ、おれの言ったことは間違いないだろ。学者さんだってそう言うんだから」コックはうれしそうに答えた。
「ぼくはマルタには行くのをやめるつもりだ」ミシェルは前もって乗客に告げた。乗客たちの数人はまた不安になったようであった。
「それに、もちろん、海賊に襲われる危険性のほうが高いよ」コックが追い打ちをかけた。
「こわい話はもうたくさんだよ」司祭がコックをたしなめた。「ご婦人もおられることだし」
 真夜中を過ぎたころ、船はシラキュース湾に入り錨を降ろした。
 ミシェルは高熱を出してベッドでうとうとしていた。船酔いだろうか? それともハッツポットのせいだろうか? オランダの食べ物は彼の胃にもたれていた。同室の船客がミシェルのうめき声を聞いて船医を呼んだ。船医は夢うつつでふらふらと現れ、ミシェルを診察した。やはり眠れなかった船長もやってきて、ミシェルに臭い息をふきかけた。
「一日三回、口をゆすぎなさい」ミシェルは突然、熱にうかされ叫んだ。
「うわごとを言っているな」船医は心配そうに言った。「できるだけ早く陸にあげなきゃならんな。陸で治療したほうがいい」
 翌朝早く、ミシェルは小舟で陸に降ろされ、シラキュースの病院に運ばれた。プロビデンス号はその日のうちにマルタへと出航した。
 数日たってもミシェルの病は回復せず、シシリア人の医師には高熱で木の葉のように震えているミシェルの病気の原因がわからなかった。
 瀉血をして悪魔の汁を絞りださなければいかん、と医師は考えた。
「やめてくれ!」腕をつかまれたミシェルは大声で抵抗した。医師は驚いて瀉血を止めた。
 時々意識をもどしてはいたが、ミシェルは何も考えることができなかった。考えようと努力するのだが、すぐにまた気を失ってしまうのだ。高熱が下がらず、医師はまた瀉血治療するしかないだろうと判断した。そのとき、アラビア人の男が彼の肩をたたいた。
「この男をわたしの家で療養させてやりたいのですが、ここは彼には騒がしすぎるのでしょう。わたしが全面的に責任を負いましょう」
「これは、アルガザーリさん!」医師は叫んで姿勢を正した。
 ミシェルは海辺の豪邸に運ばれ、そこで、やさしい女性の手厚い看護を受けた。その看護と潮風と静けさが奇跡を起こし、ようやくミシェルの熱は下がり始めた。
 数日後、ミシェルは立ち上がることができるようになり、謎の保護者がミシェルに会いにきた。
「回復にむかっているようですな」深い茶色の目をした男は言った。
「ええ、だいぶよくなりました。ところで、ご親切にもわたしを助けてくださったのはどなたですか?」
「わたしは、アブー・ハーミド・アルガザーリですが、実際にあなたのお世話をしたのは妻のファティマです。わたしはあなたをここへ運ぶよう指示しただけです」
「なるほど、あなたは命の恩人です」ミシェルは礼を言った。アルカザーリは謙虚に沈黙していた。その後に波音が心地よく聞こえていた。
「わたしたちは二人ともシシリア生まれではないようですな」彼が言った。
「そうですね。わたしはフランス人ですが、あなたは?」

「ペルシアのバグダッドから来ました」アルカザーリは答えた。彼は頭からつま先まで毛織物で身を包んでいた。
「なぜ、この島にいらっしゃったのですか?」
「ここには自由な気風があるので、わたしと妻はここに移り住んだのです。残念ですが、お祈りの時間なので失礼しなければなりませんが、またすぐにお会いしましょう」イスラム教徒のアルカザーリは部屋を去り、ミシェルは海をながめ波の動きを追っていた。翌日には、ミシェルはアルカザーリとその妻と昼食をともにできるまで回復した。
「シシリアの素晴らしいところは、アラビアとキリストの文化が融合していることです」アルカザーリは言い、ミシェルはそれに同意した。ファティマは慎ましやかにテーブルに料理をならべていた。
「プロヴァンスが恋しくはありませんか?」アルカザーリがきいた。
「いや、そんなことはありませんよ。わたしはずいぶん昔にプロヴァンスを離れて以来、各地を旅してきました」
「あなたは心のおもむくままに旅されているようですな」
「もうすでにわたしのことをよくご存じのようですね」ミシェルは驚いて返事を返した。「ところであなたの何をなさっているのですか?」
「わたしは、イスラム教の神秘主義の教え、スーフィズムに従って生きています。母国語で本を書いて出版もしています」
「あなたの本を読んでみたいのですが、アラビア語が読めなくて残念です。でも、その本についてお話しいただけますか?」アルガザーリは、しばらく考えこんでいた。その間に彼の妻が温かい食事を運んできた。
「幸福の錬金術という本が最新作です」彼は例を示した。
「イスラム教は服従を基本にしているのかと思いました」ミシェルが言った。
「そんなことはありませんよ。おそらくイスラム教徒のほとんどはそう信じているかもしれませんが、コーランとシャリアの戒律は外部へのみせかけにすぎません。アラーの教えの本質は愛ですよ」
「では、その教えがわたしを危険な運命から救ってくれたのですね」
「わが友よ、あなたは神に守られているのですよ」
「この数年というものの神から見放されているみたいだが」ミシェルがつぶやいた。
「なるほど人生は見かけどおりとは限りませんし、常に試練に満ちています。でも、きっともうすぐあなたの人生に女性があらわれて、安らぎをもたらしてくれるでしょう」
 ファティマがスープを配り、アラビア人の夫妻は黙って食べ始めた。彼らの存在は心安らぐものであり、それ以上話をしなくてもよかった。ミシェルは彼らとともにやすらかに食事を楽しんだ。一週間もすると、ミシェルは旅を続けられるほど元気を取り戻した。
「ワシが再び飛び立とうとしているようですね?」回復したミシェルがアルガザーリに面会を求めるとアルカザーリはきいた。ミシェルは素直にほほえんだ。
「どうしたらこのお礼ができるでしょう?」
「生きることです。それで十分です」アルガザーリは心から答えた。ミシェルは彼を抱擁し、謝礼を支払おうとしたが、アルガザーリは決して受け取らなかった。ミシェルは彼の妻にも礼をいい、再びたった一人の旅に出た。


 シシリアの南部は牧歌的な平原であったが、その北部には、ヨーロッパ最大の火山、エトナ山がそびえ立っている。シラキュースの町で、ミシェルは火山のふもとは再び地震にみまわれていることを知った。昨年から、雪におおわれた山頂から大きな噴煙があがるのが見えるようにもなっていた。
 ミシェルはこの山に興味がわいて登ってみようと思いたち、自分の身体がこの危険な登山に耐えられるかを念入りに調べた。
 すべてはちゃんと機能しているようだ、最後に膝の屈伸運動を試すとミシェルは判断した。そして、照りつける太陽をさえぎるために古い将校用の帽子を買いもとめた。
 火山へと向かう途中では、旅人を受け入れてくれる農場をみつけては夜を過ごした。平野をいくつか越えると、標高が急に高くなりはじめ、それにつれ一歩一歩が重くなりエトナ山もだんだんと大きく見えるようになった。火山のふもとの土地は肥沃で、かんきつ類、オリーブ、ぶどう、いちじく、小麦、オオムギが栽培されている。火山は生命を奪うが与えもするのだ。ミシェルは道中最後となる農場を訪ねて、エトナ山の状況をたずねた。
「道楽であの山に登ろうなんて、おまえさんの気がしれないよ」農夫は眉をひそめた。
「危険に求めているのだよ」
「まあ、おまえさんの命だから」農夫はミシェルを奇人だと思ったが、最もいい登山路を教えてくれた。翌日ミシェルは文明世界を後にした。しばらくすると溶岩におおわれた火山のふもとに広がる松林に着いた。そこで自分の位置を確かめ、オレンジを食べ、さらに林の中を進んだ。林はすぐに終わり、山肌には岩がむきだしになった。斜面は急斜面となりミシェルは立ち止って息をつかなければならなかった。
 遠くにシラキュース湾が見え、そこに停泊する船は小さな画鋲のように見えた。それはあまりに小さくか弱く見え、ミシェルには人間の存在のように思えた。ミシェルはしばらく考えこんでいたが、やがて荷物を背負い再び歩き出した。
 ぼくはとっても孤独だ、ミシェルは突然さびしくなった。ぼくの家族がなつかしい。フランスもなつかしい。ミシェルはふいにホームシックにかかりうなだれた。
 急斜面をよじ登っている今は感傷にひたっているひまはないぞ、ミシェルは自分に言いきかせ、決意を新たに登山を続けた。左側には溶岩の穴が見え、そこから水蒸気が上っていた。
 火、土、水そして空気。この生命の源を体験するためにぼくはここにきたのだ、ミシェルはそう信じていた。
 危険はなさそうだった。最後に会った農夫の話では、ここ数年、新たな噴火は起きていない。とはいえ、火山からあがる煙はどこからでも見えた。
「おまえはおとなしくしていてくれるよな?」ミシェルは登り続けた。しかし、突然、大きな地響きがして灰塵の雲があがり、ミシェルの顔から血の気が引いた。火山灰が岩壁の一つから噴き出したが、それは火口からの噴火ではなかった。
 よかった、噴火ではないぞ!
 苦心を重ねて、ようやくミシェルは雪が積もる地域に達した。そこには、とげの生えた植物の他にはなにも育っていない。ミシェルが深淵をのぞきこむと、数か所の側面から溶岩が流れ出しているのが見えた。
 怖い光景だ。ぼくは向こう見ずな行動をしているのだろうか? しかし、天気もいいし、山頂に達することは不可能ではあるまい。
 ミシェルはついに巨大な火口が開いた山頂に到達した。火口の縁に登るとミシェルは身も凍るような恐怖にかられた。そして身体の平衡を失いあやうく火口に転落するところであった。間一髪のところで踏みとどまり地面に手をついて身体を支えたが、彼の帽子は、ひらひらと地底に舞い落ちていった。
「危ないところだった!」ミシェルはほっとしてつぶやいた。彼の帽子は何百ヤードも下の火口の底に落ちていた。
 なぜ、突然、恐怖にかられたのだろう。ぼくの身体には戦慄が走った。あまりの高さに恐れをなしたのか、それとも薄い空気と硫黄ガスのせいだろうか? ミシェルにはわからなかった。その恐怖から立ち直ったミシェルはあたりを用心しつつ歩きまわり、自然のすばらしさを楽しむこともできた。しばらく山頂にいると、身体が凍えてきたので下山を始めた。
 火山のふもとまで無事に下ると、ミシェルは北に向かうことにしたが、それは賢明なことではなかった。それは切り立った山脈を抜ける険しい道であり、パレルモの港町にたどりつくまでに何週間もかかってしまったのだ。パレルモについたミシェルはすっかり疲れ果てしばらくは気力もなく呆然としていた。
 旅続けることで心の安らぎが得られるとは思えない、ミシェルは落胆した。ノルマン様式の教会で礼拝に参列していたミシェルはフランスへ帰ろうと決心した。


 ミシェルは、マルセイユに向かうポルトガル船を見つけた。三日間の航海の末、フランス軍港マルセイユの印象的な石灰岩の岩壁が見えてきた。マルセイユはサン・ジーンとサン・ニコラスの二つの大要塞に守られていた。船はゆっくりと港に入ったが、港の一部はまれにみる高潮で浸水していた。
 ミシェルは舷側ごしに高潮の状況を見て、ローヌ川も被害にあっているかもしれないと不安になった。下船後、ミシェルはマルセイユの町の中心にあるカヌビエール通りに宿屋を見つけた。そして、港のまわりに数多くあつまるシーフードレストランの一つで帰国を祝うことにした。
 すぐに家族に会える、ミシェルは、浸水を免れた桟橋にあるテラスに座って喜びをかみしめていた。ウェイターが注文をききに来た。
「こんにちは、ご注文は?」
「メニューにシタビラメはあるかい?」
「もちろんですとも、ご覧ください、すぐそこに泳いでおります」ウェイターは冗談を言った。
「じゃあ、衣をつけて揚げてくれ。お腹がぺこぺこなんだ」
「お飲み物は?」
「ビールをもらうよ」お祝い気分を味わいながら、ミシェルは言った。
「わたしの間違いかもしれませんが、あなたは有名なお医者さんではありませんか? ええと、ノートル、いやノストラ……」
「ノストラダムスだ。その通り、わたしだよ。こんなに長い時が過ぎても見分けてもらえるとは光栄だ。長いこと外国に行っていて今日帰ってきたばかりなんだ」
「ちょうどいい時にお帰りになられました」ウェイターは急にまじめな顔になった。
「どうかしたのか?」
「史上最悪の洪水が起こっているのです。アルプスで何週間も雨が降り続き、その上たいへんな高潮のために川の水の行きどころがなくローヌの三角州全体が浸水しています。追い打ちをかけるように、ペスト患者がみつかりました」
「なってこった、最悪の組み合わせだ」ミシェルは事態を知り、ローヌ川のほとりのサン・レミに住む家族のことが心配になった。
「すでに、溺死者が数多くでています」ウェイターはさらに説明を続けた。「生き残った人たちも持ち物のすべてを失い、ほとんどの人は行どころもありません。道も流され、家畜も死んで川に浮かんでいます」
「サン・レミも被害にあっているのかい?」
「おそらく。カマルグ地方全体が洪水にみまわれていて、近づくこともできません」
「ということは、人々はもはや安全な飲み水を手に入れることもできまい」
「そのことはわかりません。役場が災害対策にあたっていますが、医療経験のある人を探しています。あなたのように有能なお医者さんは喉から手がでるほど欲しがっていますよ」
「では、わたしは仕事にかかる準備をしよう」ミシェルは言った。「シタビラメの代わりに何か簡単ものを持ってきてくれ、もうお祝いするどころではないからな」
 食事の後、ミシェルは役場に出向いた。すぐさま、ミシェルには二人の助手がついた。

 水が引きはじめると、三人は状況を視察し応急処置をとるために馬に乗って災害地域に向かった。
「記憶を新たにしてもらうために、ぼくの処置計画を繰り返すが」ミシェルは助手に言った。「今のところ、我々ができることは、すべての人々に普通の水は飲むことはもちろん、洗濯にも適さないことを説得することだけだ。沸騰させた水か、清潔な桶にためた雨水は安全だ。帰ってきたら、バラの花びらで薬を作り、できる限りの被害者に配る予定だ」二人の助手は注意深くミシェルの話を聞いた。
 お昼前に彼らはローヌ川に着いたが、そこですでに川に浮かんでいる死体をいくつか発見した。そして馬が暴れだして手に負えなくなったので手綱をとき木につないだ。
「彼らの死因を調べてみよう」とミシェルは言い、助手とともに川岸へおりた。そこから、木の枝で川岸近くに浮いている死体をつついてみた。
「ひっくり返してみてくれ、そうすればもっとよく見えるだろう」ミシェルは頼んだ。助手はしばらく、おっかなびっくり死体をつついていたが、やがて死体をひっくり返すことができ、恐ろしい腫瘍におおわれたその顔が見えた。
「黒死病だ」彼らは身震いした。
「先を急ごう。馬も慣れるだろう」ミシェルが険しい顔をして言った。
 苦労の末にようやく洪水の被害を受けた最初の村にたどりついたが、村は洪水と同時にペストの被害も受けていることがわかった。道に水があふれ、人間の死体と動物の死骸が水たまりに浮いていた。被害の状況があきらかになるにつれ、ミシェルはこれはいまだかつてない大惨事であるという確信を強めた。被害にあいボロボロになった村人の姿に胸が痛んだが、水についての注意を与えこと以外にはミシェルとその助手にできることはなく、彼らは旅を続けた。
 グラン・ローヌ川とプティ・ローヌ川にはさまれた三角州は、死体のたまり場となっていって、馬はおびえて立ちすくんだ。訪れる村の状況はどこも同じであった。死神はその斧をふるい、住民には溺死をするかペストで死ぬかの選択しか残されていなかった。ウラインの村は恐怖に支配され、生き残りの中には死に物狂いで、馬に乗ったミシェルたちにすがりつく者もいた。ミシェルはようやくのことで馬を鎮めながら、彼らに離れるように命じた。
「おまえらはなにもしてくれないのか?」やぶれかぶれで彼らは叫んだ。
「水に気をつけるように忠告してやったろう」ミシェルは答えた。
「忠告だけか?」
「そうだ、だがわたしの忠告にしたがえば、生き残れる可能性は高いぞ」
「さっさといっちまえ」別な村人が言い放ち、三人に向っては石や小枝を投げつけはじめた。三人は大急ぎで逃げ出した。
 駆け足でいくつもの村を通りすぎ、彼らはローヌ川がプティ・ローヌとグラン・ローヌに分かれる地点までやってきた。ミシェルはこのあたりを自分の手のひらのようによく覚えていた。生まれ故郷のサン・レミはすぐそこだ。サン・レミの住民の数は十分の一に減っているということだった。
 家族は無事だろうか、彼は心配になって助手を残して大急ぎで両親が住むレムパート通りに馬を乗り入れた。しかしそこはもぬけの殻であった。彼は人の気配がないかと馬を降りて調べたが人影はなく、町役場に行ってみることにした。
 町役場のたった一人の役人は、ミシェルの弟の一人が町はずれの壊れかかった家を直していることを教えてくれた。ミシェルは馬に飛び乗り駆けつけた。そしてベルトランが木の柱を抱えてそこに立っているのを見つけ、駆けよった。
「ミシェル、生きていたのか」すぐにミシェルを認めたベルトランは叫び、柱を投げだしミシェルに駆けよった。二人は、涙もぬぐわず固く抱擁した。
「お父さんとお母さんは?」ミシェルは大急ぎできいた。
「しばらく前に亡くなった」ベルトランは、むせび泣いた。
「他の弟たちは?」
「エクトールはおぼれ死んだ。ジュリアンは、エクス・アン・プロヴァンスの山の上に住んでいるが、消息がわからない。アントワーヌはアルルの町役場で働いているよ。実際のところぼくたちは洪水をよく生き残ったほうだ。兄さんからはしばらく便りがなかったけど、どうしていたんだい」
「いろいろありすぎて今は話している暇はないが、かいつまんで言えば、家族を亡くした後、半年ほど気がおかしくなっていたんだ」ミシェルは答えた。
「兄さんの家族のことは、当時アジャンの町役場で聞いたよ」
「まだ、罪の意識にかられているよ、ベルトラン。ぼくがペスト患者の治療をしているあいだに、家族がペストの犠牲になったのだ」ミシェルに痛恨がよみがえった。
「崩れた家を直しているのかい?」
「そうなんだ。見ての通り仕事が山積みさ」
「そうか、仕事にもどらなくてはならんようだな。ぼくもまだたくさん仕事が残っているし。だが、すぐにもどってくるよ」そして二人は別れた。

 ペストの最悪の状況が好転のきざしをみせると、ミシェルはサロン・ド・プロヴァンスに居を構えた。町の人々はもろ手を上げてミシェルを歓迎した。ミシェルはここに永住するつもりであった。一年うちにポワソンネリ広場に新しい診療所を開いた。さらに、再びエーテル油と自家製の薬を作り、化粧品と衛生に関する本も書いた。それは好調なすべりだしであった。たった一つ足りないものは愛する女性であった。




第5章