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  第1章


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Eric Mellema
www.nostredame.info

英日翻訳 ラリス 資子






3



「我が家にまさるものはなし」いくども行ったり来たりを繰り返したあとで、家に帰ってきたミシェルに父親ジャックは言った。しかしミシェルはそのつきなみ言葉に返事をしなかった。

「おまえは変ったね。ずいぶんと静かじゃないか」

「ぼくも年をとったのですよ、お父さん」ミシェルは短く答えた。ミシェルはすでに両親のレベルを超えていたのだが、それ以上何かを言って両親を傷つけたくはなかったのだ。

 ジュリアンはエックス・アン・プロヴァンスで法律を学んでいるし、ベルトランとその妻は町のはずれに自ら建てた家に移り住み、家を出ていたので部屋は空いていた。ミシェルは、今は使われていない屋根裏部屋に戻ることにした。
 エクトールとアントワーヌはこの家にまだ住んでいて、経験豊かな兄から新しい話を聞くことを楽しみにしていた。しかし、ミシェルは彼らと話をする気分ではないようだった。

いろいろな経験を経て、おしゃべりをして時を無駄に過ごすにはミシェルの心は、あまりに重くかたくなになっていたのだ。その心には雲がたれこめているようであった。神秘のベールが、高次元の自己意識の成長を守るかのようにミシェルをおおい、人を寄せつけなかった。もしだれかがこのベールを取り除いたら、ミシェルの視線で焼きつくされるかもしれない。ミシェルは自分の性格の変化をあきらめていた。これまで学問に没頭してきた彼には今、なによりも休息が必要であった。


 ある日、この毅然とした医師ミシェルは近くのアルルの町に患者を訪ねた。天候にも恵まれ、美しい景色を眺めながらの道中は心地よかった。アルルに入ると、馬車は町の中心近くの黄色い家の前に止まった。ミシェルは扉をたたいて返事を待ったが返事はない。鎧戸があいていたので、中をのぞいてみた。

「往診です」ミシェルがはっきりした声でよびかけても、人の気配はない。ミシェルは、窓をよじ登ろうかと思ったが、その前にもう一度、表の扉を強くたたいてみることにした。その時突然、背後から、赤毛のやせこけた男が近づいてきた。男はペンキにまみれた靴をはいていた。男は、乱暴にミシェルを押しのけ家に入っていった。

「おい、待てよ、ここに往診にきたのだ」ミシェルは男を呼びとめた。男には左耳がなかった。耳がきこえず口もきけないようである。男は、ミシェルの目の前で乱暴にピシャリとドアを閉めた。

なんてこった、いままでこんな扱いを受けたことはない、ふだんは医師として尊敬を集めているミシェルは、プライドを傷つけられ腹を立てた。ここではくずのような扱いだ。

ミシェルは怒りをしずめることができぬまま、アルルの町を歩いた。アルルはフランスで最も美しい町の一つだ。

 この奇妙な事件のおかげでひまになったミシェルは、カフェが集まるフォーラム広場に出て、テラスの籐椅子に座り、冷たい飲み物を注文し、喉のかわきをいやしながら、周囲を観察した。

 アルルは田舎町だが、文化振興で名をあげ、裕福なイタリア人やスペイン人が数多く訪れる。外国人は、高価な服を身にまとい、外見もフランス人とは違うので一目でわかる。その姿には心躍るものがあり、人目を集めている。

 しばらくして、一人のイタリア人の女性が、店が立ち並ぶ通りからこちらに向かって歩いてきた。ミシェルは、すぐさま、その姿に心を奪われた。その女性は二十歳ぐらい、ミシェルよりは何歳か若いだろう。こぢんまりとした美しい顔に輝く目、長い首そして優雅な物腰。ミシェルはこの魅力的な女性を見つめた。高貴な生まれに違いない。ミシェルは彼女から目をそらすことができなかった。こんなに美しい女性に、生まれてこのかた会ったことがない。キューピッドの矢がミシェルの心を射貫いた。

フランス人のほとんどは自分の美しさを誇示しないものだが、イタリア人は違う、その女性も非常に人目をひく服装をしていた。彼女はパフ・スリーブと白い開いた衿のついた紫のベルベットのドレスを身にまとっていた。ベネチアン・スタイルのスカートはウェストから広がって床にとどく長さだ。それを何段ものフープで持ち上げている。その上、黒髪を頭のてっぺんに結いあげ宝石で飾りたて、高そうな真珠のネックレスをしている。

 この目を見張るほど美しい女性は、威風堂々とドレスのすそをひいてミシェルに向かって歩いてきた。見れば見るほど、この世のものとも思えぬ美しさだ。二人の紳士とおつきの女性とおしゃべりに興じながら、ミシェルの脇を通りかかったとき、思いがけず、彼女は、まっすぐにミシェルを見つめた。ミシェルに恋の魔法がかけられた。ミシェルは、予期せぬそのまなざしにとろけ、自分の人生がまさに今始まったかのように感じた。

「なんてこった」ミシェルは、完全にうろたえて口ごもった。ミシェルは彼女を見つめながら、木の葉のように震えていた。突然、これまで考えたこともなかったほど自分がちっぽけで傷つきやすい存在に思えた。長い間、患者の診察だけに没頭してきたミシェルは愛というものをすっかり忘れていたのだ。今、まさにその魂のすきまに陽の光が差し込んだ。心臓が高鳴るなか、二人の目があった。彼女もまた愛の矢に射貫かれた。そして、ほおを赤らめながらも、連れとともに立ち去りつつあった。ミシェルの心は燃え上がり、この女性に求愛しなければと心に決めた。のぼせるあがったミシェルは、あわてて立ち上がり、テーブルにお金を投げ置くとイタリア人の女性のあとを追った。ミシェルは少し間をあけて一行のあとを追いながら、彼女に話しかける方法を必死に考えていた。その女性も背後にミシェルの気配を感じていたが、振り返る勇気がなく、やがてある屋敷の中へ入っていった。落着きを失ったミシェルは、ほとんどパニック状態におちいった。

どうしたらいいのだ、ミシェルは途方にくれていた。その時たまたま屋敷の中から女中が現れ、それに気づいたミシェルは声をかけた。

「すみませんが、今入っていった一行はいつまで滞在しているのか教えてもらえませんか? 彼らに話があるのですが」

女中はミシェルのきちんとした身なりに見て、期待どおり答えてくれた。「ド・バーデモントさんのお知り合いですか?」

「まあ、そんなところです」ミシェルは、事実を曲げて答えた。女中は、急に口が軽くなり、一家は次の土曜日にロット・エン・ガロンヌに帰る予定であることを告げた。必要な情報を得たミシェルは、女中に礼を言い、至福の境地でサン・レミに帰った。そして、夢の女性に会うための作戦をたて始めた。

昼食の席についたミシェルの様子はこれまでと違っていた。

「おまえ、ごきげんだな」父親が言った。

「それに、いつになく、ハンサムに見えるわよ」母親がつけ加えた。「絶対、輝いているわ」

ミシェルは、きまり悪そうに微笑んだが、何も言わず、その想いを心のうちに秘めていた。しかしレニエールには思い当たるふしがあった。

「わたしには、何があったかわかるわ」レニエールはいたずらっぽく言った。翌日、ミシェルが鏡を借りにきたので、それは確信となった。ミシェルは恋しているに違いない。

「落ち着かないのは、女の人のせい?」

「うん」ミシェルは認めた。

「そういうことなら、わたしが知恵を貸してあげるわ。あなたは、よく勉強してなんでも知っているかもしれないけど、こと女の人については、わたしの意見を聞きなさい」母親は、ミシェルの秘密を見ぬいていた。うぶなミシェルは、子どものように頼りきって母親を見つめた。

「女はほめられると喜ぶものよ」レニエールが言った。「その人はこのあたりの人?」

「イタリア人だよ」

「まあ、流行先端の国ね。それなら、あなたもおしゃれしなくちゃ」そして、レニエールは、その日のうちに、流行の服を買い求め、自らミシェルの身体に合わせて仕立て直した。エクトールとアントワーヌも、何事かと興味津々で居間にやってきた。

「お母さんがミシェルを飾り立てているよ」二人は頭をかいた。レニエールは、新しい赤いベストを取り出し、首元までボタンがあるフリルのついたシャツの上に重ね、その上にさらに黒のフロックコートをミシェルに着せた。

「ぼくも、そんなの欲しいなあ」高価なスリットの入った長いベルベットのコートを見たとたん、エクトールは興奮して叫んだ。そこへ父親が仕事から帰ってきた。

「ミシェル、おまえに手紙が来ているぞ」ジャックは驚いてミシェルを見つめていた。

「今、手が離せないんだ、お父さん」

「じゃあ、おまえの机の上に置いておくよ」ジャックが言った。その間もレニエールは、ミシェルの着付けに余念がない。

「おまえはやせているけど、この上着を着るとがっしりして見えるわ」レニエールは上着を直しながら言った。

「お母さんのいうことには間違いがないよ」ミシェルは銅像のように身動きもせずに答えた。そして、片足からもう一方の足に飛びはねはじめた。レニエールがファスナーのついたニッカポッカ、白いストッキングと幅広の革靴をミシェルにはかせようとしていたからだ。

「その靴はきれいだね」アントワーヌが言った。

「そうだね」着飾ったミシェルが靴を見おろしていった。

最後に、レニエールが羽のついた帽子をミシェルの頭にかぶせるといっそう見栄えがした。ミシェルが際立っておしゃれに見えるのは家族全員が認めるところだ。恋するミシェルは居間の中を歩きまわってみせた。

「なんってこった、おまえ、王様のように見えるよ」居間に戻ってきたジャックがうなずきながら言った。


翌日、ミシェルは仕事を休み、新しい服を着て、胸をはずませてアルルにでかけた。アルルにつくと、あの美しい女性が入っていった屋敷のまわりを一時間近くもぶらぶらと歩きまわり、彼女の姿を一目でも見ることができないかと、その建物のすべての窓を繰り返しのぞきこんだが、その姿はどこにも見あたらなかった。

ひどく下世話な闘牛の呼び込みをしているせむしがとなりに立ち止まった。それに気分を害したミシェルはその場を退散し、二日前と同じテラスに腰をおろした。気持ちを落ち着けようと飲み物を注文したまさにその時、あの美しい女性がたった一人でどこからともなく現れ、ミシェルの脇を通り過ぎた。ミシェルの落胆は陽をあびた雪のように溶けていった。ミシェルは勇気をふりしぼって、あたふたとその女性を追いかけた。ミシェルの思い違いではなかった、その女性は、ほんとうに優雅で繊細で美しい。非常に魅力的だ! ミシェルが急ぎ足で近づいてくるのを見たイタリア人の女性も落ち着きを失い、どうしてよいのかわからずとまどっていた。そして、ミシェルの寸分の隙もないしゃれた服装を見て顔を赤らめた。

わたしのためにおしゃれをしたに違いないわ、緊張もしたが、また誇らしくもあった。

「マドモワゼル ド・バーデモント」ミシェルはやっとのことで話しかけた。「医師として、あなたのドレスのウェストは締めすぎだとご忠告せずにはいられません。血液の循環が悪くなります」

ぼくはなんてバカなのだ。彼女をほめるつもりだったのに。

「わたしが言いたかったのは、あなたの美しさをそこねかねないということです」

しかし、返事はなかった。イタリア人の女性は答えに困っていたのだ。自分の気持ちを素直に伝えるべきだ、ミシェルは決心した。

「正直に申しますと、あなたに心から感銘を受けて、またお会いせずにはいられなかったのです」ミシェルは言った。このミシェルの率直な言葉に緊張もほぐれ、その女性は微笑んだ。

「アルルで診療なさっているの?」彼女は、まだ硬さが少し残るが、なまりのない流暢なフランス語でたずねた。

「いや、でも時々、ぼくはサン・レミから来ていて、そこで診療もしているのです」ミシェルは、しどろもどろに自己紹介をし、テラスでお茶を飲もうと彼女を誘った。二人はミシェルの飲み物が置かれたテラスの席に向かって歩いていった。フープ・スカートを身につけてテーブルの間を通りぬけることは至難のわざであったが、ようやく二人は腰をおろした。

「ヨランダ、あなたはほんとうに素晴らしい」ミシェルはほめた。「でも、そのすてきだけど重いドレスを着て、どうやって一日過ごせるのかい?」

「町にでかけるときだけ、このドレスを着ているのよ。家に帰ったらすぐに脱いじゃうの」ヨランダはソワソワした様子で、アニスの飲み物を運んできたウェイターに礼を言った。まわりの人たちは、このすてきなカッブルをおおっぴらに見つめていた。二人は周囲の注目を集めていることをはっきり意識していたが、ミシェルは会話の糸口をつかもうと必死で、それどころではなかった。

「一人でそのドレスを脱ぎ着するのは無理じゃないの?」

「侍女が手伝ってくれるのよ」ヨランダが答えたが、そのあとは、また意味深長な沈黙が続いた。ミシェルは、懸命に言葉を探したが、うまい言葉が浮かばず、しかたなしに飲み物のおかわりを注文した。

「医師になるための勉強はとっても大変だと聞いているけど」ヨランダが言った。

「大学に五年間通ったよ」

「とっても頭がいいのね。なかなかできることではないわ」ヨランダがミシェルをほめた。ゆっくりではあるが確実に、二人の間にはなにか美しいものが通いはじめていた。

「なぜアルルに来たの? どこかへ行く途中みたいだけど」ミシェルがきいた。ヨランダは、ロットガロンヌに家族が所有する城に行く旅の途中であること、自分が貴族の出であることを話した。

「ご両親がお城を持っているのだね?」ミシェルはきいた。それにうなずいたヨランダは、だんだんうちとけて、父親のフェリ四世 ド・バーデモント伯爵のこと、母親のナポリ女王のこと、両親には自分を含めて九人の子供がいることを語った。よそよそしさはまったくなくなり、二人の間には親愛の情が芽生え、炎が燃え上がった。それは真の愛だった。

これほど時がたつのが早いことはなかった。二人は天にものぼる心地であったが、やがて別れをつげるときがきた。ヨランダはロットガロンヌに着いたらすぐに、ミシェルに手紙を書くことを約束した。そして、二人の姿に微笑むまわりの人たちを残して、広場をあとにした。

ミシェルがサン・レミに帰ると、すぐさま、レニエールはことの次第をたずねた。

「肯定的だ」ミシェルはきどって答えた。

「肯定的? それだけなの? あなた、輝いているわよ」

OK、わかったよ、話すけど」ミシェルは大声で笑った。「まずはこの道化服を着替えてからだ」

そして、屋根裏部屋にかけあがりながら、ミシェルは叫んだ。「あの人はぼくの妻になる!」

一週間後、ミシェルは愛するヨランダから、その想いがつづられた最初の手紙を受け取った。その後も何通もの手紙が届いたが、二人の愛の炎は燃え続けていること、ミシェルとヨランダはお互いのために生まれてきたことは確かだった。最近届いた手紙では、ヨランダはミシェルに、すぐにもロットガロンヌを訪問してくれるように頼んでいた。

ミシェルにようやく恋人ができ、おまけに、その恋人は裕福で高貴な家の出身ときている、ジャックとレニエールは大喜びだった。

「ミシェル、大物を捕まえたね。おまえの遺言状で、わたしたちにも財産を残してくれるよね」公証人であるジャックは、ミシェルをからかった。

「公証バカだね」ミシェルはめずらしく軽口をたたいた。

「おまえはりっぱなお城に住むことになるのかしら」レニエールが想像をめぐらせた。

「お母さん、気が早いよ。まず、この訪問がうまくいくかだ」しかし、レニエールには、息子はサン・レミの町を永遠に離れることになるという予感があった。


それから間もなく、ミシェルはヨランダに再会するために、プリンセスを救いにいくような意気込みで旅立った。彼の頭の中には、美しいドラマが繰り広げられていたのだ。ツールーズに向かう馬車の長旅のあいだも、幸せもののミシェルは、ヨランダへの想い、それは永遠に燃え続けると思われた、に自分がとらわれていることを自覚していた。恋は盲目とはよくいったものだ。
 アリエージュで、馬車は歴史的に有名なマウント・モンツェガーを通りすぎた。ここは何世紀も前に、最後のカタリ教徒が集団虐殺されたところであり、ミシェルは、大学時代の親友フランソワ・ラヴレーのことを思い出した。

アリエージュからは、景色はますます緑におおわれ、いたるところにぶどう園があった。

 ブドウつみ、ブドウ園を見てすぐさまミシェルは夢を描いた。ただヨランダといっしょにブドウがつめれば他に何もいらない。水平線に広がる花盛りのブドウ園をながめて、ミシェルはヨランダへの愛に酔いしれていた。
 日が暮れかかったころ、ピュイール城が遠くに姿をあらわした。ピュイール城は、ド・バーデモント家が所有する城だ。城は丘の上に壮麗にそびえ立ち、その上空には、城を象徴するかのようにオリオンが輝いていた。御者はこの旅をうまく計画していた。午後七時に城に到着し、たそがれどきに馬車を停めたのだから。愛に酔いしれるミシェルは馬車を降り、人の姿をさがした。ふいに、巨大な門の落とし戸があげられた。ミシェルは息を深くはき、荷物を手に門に向って歩いていった。ミシェルがあたりを見回すと、開いた窓の内に最愛のヨランダの姿をかいま見ることができた。ミシェルは、緊張の面持ちで、門をくぐり広大な中庭を屋敷に向かって歩きはじめた。その背後で落とし戸が音を立てておろされた。侵入者を防ぐためだ。

「こんばんは、ノストラダムスさん」ヨランダの父親、ド・バーデモント伯爵はあごひげをなでながらミシェルを出迎えた。ド・バーデモント伯爵はミシェルと距離をおいていた。召使いがミシェルにかけ寄りその荷物を受け取った。

「きみが、わたしの娘が夢中になっている若いお医者さんだね。旅はどうだったかね?」

「おかげさまでいい旅ができました、閣下。でも今は身体を動かしたくてなりません」ミシェルは答えて、手足を伸ばしてみせた。そこへ上機嫌のヨランダが現れたが、伯爵のいいつけでミシェルはすぐに部屋へ連れ去られ、二人は言葉を交わすこともできなかった。

「今夜の食事のあいだに、話す機会はいくらでもあるよ」伯爵はヨランダにささやいた。城主としては、娘が息せききって新参者を追いかけまわすのを見るのは不愉快だったのだ。まったくはしたない。批難の表情を浮かべて伯爵は部屋の一つに姿を消した。
 ミシェルは、高さ二十メートルの楼閣に案内された。

「最上階にお泊りいただきます」オイルランプをかかげて、ゆっくりと階段をのぼりながら召使いはつぶやいた。そして、千段の階段をのぼりつめて疲れたきったミシェルを八人の楽隊の像に守られた飾り柱のついたベッドが置かれた部屋に残して立ち去った。

 仮眠から目覚めたミシェルは、部屋のまわりをさぐってみることにした。闇につつまれたせまい木の階段をのぼり屋上のテラスにでると、そこから城の界隈を見渡すことができる。静かな湖畔に位置するピュイールの村は満月に照らし出されていた。

 ミシェルは、中庭のざわめきに気づいた。着飾った客がそこに集まり夕食を待っていた。ミシェルは大急ぎで部屋にもどり、服を着替え、ちょうどダイニングルームに入っていく一団に合流した。広いしゃれたダイニングルームには、豪華なテーブルとそれに合わせた椅子がしつらえられている。華やかな家族に似合いの家具である。

 召使いはミシェルをヨランダの向かい側だが、伯爵とヨランダの母親であるナポリ女王の間の席に案内した。彼らは娘の花婿候補をテストするつもりだ。恋人たちは、期待に満ちて、だが両親の判定に少し不安をいだきながら、見つめあった。

 ヨランダはあざやかな青緑色のドレスを着て、今日は髪を低めのシニョンに結っていた。ヨランダはひかえめな笑みをミシェルに送り、ミシェルもかすかに微笑みかえした。

 テーブルは名門一族にふさわしく用意されていた。ガラス食器には金の縁取りがあり、一家の紋章が手書きされているし、テーブル・リネン、ナイフとフォーク類にも紋章が飾られ、いたるところ紋章だらけだった。

 召使いが給仕を始めた。伯爵夫妻の他に、五人の息子と四人の娘、三人の義家族、数人の孫、さらに、数人の客がテーブルについていた。

 ぜいたくな食事のあいだも、恋人たちは互いに目をそらすことができず、いちゃついていた。

「ご存知かと思うが、君たちだけがテーブルについているわけじゃないのだよ」ヨランダの義兄がそれを見かねて意見した。なにはともあれ、二人が恋に落ちていることはだれから見てもわかる。

「プロヴァンスでは、きみは評判がいいらしいね」伯爵がいった。もう少しでスープのしずくが伯爵のあごひげにかかるところだった。

「ぼくは病気の治療に全力をつくしています」ミシェルは答えた。「でも、ペストがおさまってほっとしていますよ、ペストを抑えることはほとんど不可能ですから」

「あのこわい病気がここではやらなくて本当によかったわ」ナポリ女王が言った。

「ところで、きみは実際に大学を卒業したのかい?」伯爵が突然きいた。

「お父さま、そのことはもうお話しましたでしょう」ヨランダが恋人をかばった。

「夕食後に卒業証書をお見せします、閣下」ミシェルは約束した。

「そうしてくれたまえ、興味があるからね。食事のすぐあとで、わたしの部屋へきてくれたまえ。たまたま、おいしいコニャックもあるし。わかってくれると思うが、わたしは娘には最高のものしか望んでいないのだよ」伯爵は、まだ疑いが晴れぬようすで、ミシェルが義理の息子としてふさわしいか判断するために質問を重ねることをためらわなかった。質問の内容は多岐にわたったが、ミシェルはそれぞれの質問に申し分のなく答え、しだいに伯爵の疑いも晴れていった。

 デザートがすむと伯爵と夫人はダイニングルームを出て、二人だけで相談をして戻ってきた。どうやら、この花婿候補は、娘にふさわしいと判断したようである。ここまでくれば、ミシェルも間違いを犯しようがない。
 伯爵はミシェルと自室でしばらく時を過ごした。その後ようやく、二人きりになれた恋人たちは、ひそかに城の外へと散歩にでかけた。心が通う二人には言葉はいらなかった。栗の木陰でこっそりとキスを交わし、その感触は魔法のよう二人をとりこにした。

 そして、一週間後には、ミシェルはヨランダに結婚を申し込み、ヨランダは大喜びで承諾した。慎重なヨランダの父親もその日のうちに結婚を許した。結局のところ、ミシェルは父親の望む条件をすべて満たしているのだから。夢が実現しつつあった。ミシェルは世界中を自分のものにできるかのように感じていた。


 これまでの憂うつから解放されたミシェルは、両親にピュイべールで結婚式をあげることを知らせた。しかし、両親は、高齢のために病がちで、ピュイベールまでの長旅はできないので、弟のエクトールだけが結婚式に出席することになった。ミシェルは、両親に自分の持ち物を送ってくれるように頼み、また、なるべく早い時期にヨランダと共にサン・レミを訪問することを約束した。

結婚式の当日は、この輝かしい日を祝って、名士、名婦人が数知れず集まり、盛大な結婚披露パーティが繰り広げられた。パーティが終わり、ようやく、二人きりになると新婚夫婦は飽くことなく互いを求めあった。

「きみと結婚できたなんてまるでおとぎ話みたいだ」ベッドに横たわり、ヨランダに無我夢中でキスをしながら、ミシェルは言った。

「これはおとぎ話よ」ヨランダがやさしく答え、二人は再び恍惚の絶頂へとのぼりつめていった。八人の音楽家の彫刻は顔を壁に向け、二人から目をそらした。

 めくるめく結婚初夜が明けると、すぐに二人は行動をおこした。アジャンに新居を構えることにしたのだ。アジャンの商工会議所は資格を持つ医師を探していて、ミシェルをその地位に採用したのだ。アジャンの町は活気にあふれ、またピュイベールにも近い。若い夫婦は独立生活を営みながらも、家族との交流も維持することができる。

 有頂天の二人はアジャンに家を探しにでかけ、すぐに美しい噴水がある町広場に、うってつけの家をみつけた。新居に引っ越した二人は、自由と夏の日々、そしてとりわけお互いを心ゆくまで楽しんでいた。

 ある蒸し暑い夜、二人は噴水にかけより、水しぶきの下で心のおもむくままに踊りまわり、踊り疲れて噴水のふちに腰を下ろし、水をしたたらせながら、歓喜に笑い転げていた。

「目を閉じて」ヨランダが言って、ミシェルの口に何かを入れた。

「さくらんぼだ!」ミシェルが言った。

「他のものあるのよ」

「果物かい?」

「そうよ、子供ができたの」二人は情熱的にキスを交わした。

 ミシェルは、医師としての仕事のほかに、小さな香水工場をはじめた。そこでは、大勢の従業員がハーブや他の植物からエーテル油を蒸留して薬用の濃縮オイルを作っていた。ミシェルは、この濃縮オイルを使って、様々な病に効く薬を調合した。こうして、ノストラダムス夫妻はアジャンの生活になじんでいった。


 ある日、ミシェルはソレイユ通りにある希少本を扱う本屋をのぞいてみようと思いたった。

「お探しのものは見つかりましたか?」あるじが裏から声をかけた。

「ただ見ているだけで、特に何か探しているわけではないのですが」ミシェルが答えた。長いひげをはやしたあるじがミシェルに向かって歩いてきた。

「新任のお医者さんでいらっしゃいますか?」

「そのとおりです」

「わたしはアビゲイルと申します。ようやく、この近所で読書好きの方にお会いできてうれしいですね。この小さな町には本を読む人は少ないのですよ」

「ぼくはまだ、このあたりの人をあまり知らないので」ミシェルは言いわけした。

「もちろん、一冊の本は、ひと塊のパンよりずっと高価ですから、本を買える人はほとんどいないのですよ」アブリゲルは言葉を補った。「もし、医学書をお探しなら、もちろんお手伝いできますよ。その分野で先端をいくロンドンの出版社にコネがあるので」

「たぶん、あとで、もっと時間があるときにでも」忙しいミシェルが言った。「残念ですが、もう行かければならなりません。ではまた」そしてミシェルは次の患者の診察にでかけた。

 やがて、ミシェルがそれなりの医学書を収集したころには、ミシェルとヨランダの最初の子どもも生まれた。長男のビクターである。まだビクターのおむつが取れないうちに、ヨランダはふたたび身ごもった。そのあいだにもミシェルは本屋のあるじとの親交を深めていった。

ある日、本屋のあるじは、ミシェルのために、いわくありげな包みを取り置いていた。「カバラ」とゴシック体の文字で表紙に書かれたその書物を見て、ミシェルはおどろいて喜んだ。もちろん、カバラのことは前から聞いていたが、研究したことはなかった。カバラの本をアビゲイルから受け取るとは、まったく思いもよらなかった。

「おいくらですか」財布を取り出しながら、ミシェルはきいた。

「お支払いいただく必要はありません」アビゲイルが答えた。

「それは、どうもありがとう」

「わたしにお礼を言うことはありませんよ。あなたのかくれ崇拝者に言ってください」

ミシェルは肩をすくめて、本を受け取った。

家に帰ると、ビクターはすでに小さなベッドで熟睡していた。ミシェルは暖炉の前にくつろぎ、ヨランダはジャスミンティーをついでミシェルに寄り添った。ヨランダと過ごす静かな時に、ミシェルの仕事におわれた長い一日の疲れもいやされた。医師としての仕事も順調だし、ミシェルは満足げに、美しい妻を見やり、キスをし、そのふくらんだお腹に手をあてた。胎児はすでにお腹をけり始めていた。

お茶を飲み終えたミシェルは、手に入れたばかりのカバラの本を書棚から取りだした。その本には「神秘主義の知識の集大成」という副題がついていた。ヨランダに寄り添って絨毯の上でくつろいで、本を開いてみると、中に名前と住所が記されたカードが入っていた。「ユリウス・スカリゲル アジャン市 ド・ラトレ通り十五番地」この男がノストラダムスのかくれた崇拝者に違いない。

「ヨランダ、ユリウス・スカリゲルという名の人を知っているかい?」

「スカリゲルはアジャンではよく知られた市民よ。スカリゲルが書いた本は物議をかもしだしているけど、ユマニストとしてはどこでも、高く評価されているわ。」

「どうして今まで、その名を聞いたことがなかったのだろう?」

「あなた、すべてのことを知ろうなんて無理よ。でも、なぜスカリゲルのことをきくの?」

「スカリゲルがこの本をぼくにくれたのだ。見てごらん、彼の名刺が入っていた」ミシェルは名刺をヨランダに渡した。

「どうしてくれたのかしら?」ヨランダは驚いてたずねた。

「ぼくの知ったことか」

「ちょっと待って、スカリゲルもお医者さんよ」ヨランダが突然、思い出した。「アジャン司教の侍医よ。それが関係しているに違いないわ。モンペリエの医学校で、あなたのことをきいたのではかしら?」

「それは、あり得ないよ」ミシェルが言った。「とにかく、どんな本をくれたのか調べてみるよ」そしてミシェルは本を読みだした。

「キリスト教の教義には、聖書に書かれている教義のほかにも、カバラの教義がある。カバラは、創世記にもとづく秘教で、一般には師から徒弟に伝承されている。生命の樹はカバラの象徴であり、聖書を神秘主義の見地から解釈する際のかぎとなる。生命の樹とは、天地創造の中に記されている四つの世界のことで、自己意識の四つのレベルを象徴している。この生命の樹への理解は、瞑想することで深めることができる。もともとカバラは、聖書に隠された教義をさとすユダヤ教の秘教だったが、今では、キリスト教のスコラ哲学にも取り入れられている。カバラは、秘教の神学校でも教えているし、魔術師ともよばれる信者が教えることもある」

 ミシェルは本を閉じた。ミシェルは、この数年間、自分は精神的には、まったく成長していないことを痛感した。この本は天からの賜りものだ。ビクターのおむつを替え、三人の親子は幸せな気分で床についた。

「近いうちにスカリゲルを訪ねてみないといけないな」ビクターのまぶたがゆっくりと閉じていくのを見守りながら、ミシェルは言った。

「あせることはないわよ、あなた。スカリゲルはどこへもいきはしないわ、もう何年のアジャンに住んでいるのよ」ヨランダがささやいた。

 数日後、ミシェルは、ド・ラトレ通り十五番地の扉をたたいた。いかつい体つきの召使いが扉を開け、主人は留守であるとミシェルに告げた。しかし、そのとき、やせ細って小柄な男が階段を降りてきた。アジャン司教の侍医、スカリゲルその人だった。

「これは、これは、先生、喉がひどく腫れて困っていたところです」

ユリウス・スカリゲルの冗談は、ミシェルには通じなかった。

「すぐに診察しましょう、でもその前に、あなたがくれたすばらしい本のお礼を言わせてください」ミシェルはまじめに答えた。

「そんなことはなんでもない。実はアブリゲルがあの本を選んだのだ」二人は、科学者と哲学者の肖像画がところせましと飾られた客間に入った。

「すごい数の肖像画ですね、すべてお知り合いですか?」

「すべてではないがね。今、君が見ているのはエラスムス肖像画だがエラスムスとはちょうど手紙で議論していたところだ。エラスムスはヨーロッパの最もすぐれた思想家の一人とされているが、わたしから見ると彼の論法にはかなり穴がある」スカリゲルは安楽椅子に腰をおろした。

「エラスムスのことは聞いたことがあります」ミシェルがうなずいた。「それにしても、どうしてわたしに本をくれたのですか?」ミシェルも椅子に座った。

「きみの名前をよく耳にするのだよ」スカリゲルが説明した「教会の圧力に屈しない医者はめずらしいからね。わたしは反体制の科学者が好きなのだ。わたし自身も医学を勉強したし、きみと知り合いになりたいと思ったのだよ」

「それは光栄です」ミシェルは、室内を見まわしながら答えた。

「きみが、ここアジャンに引っ越してきたことのもなにかの巡りあわせだろう」ユリウスは続けた。「それも、わたしの心を躍らせる美しく高貴な花を連れてね。」

「なるほど、それでプレゼントをくださったのですね」

「すべてのことには意味があるのだよ。あんなにきれいな奥さんがいてきみは幸せだね」

「まったくその通りです。で、これはだれですか?」ミシェルが肖像画の一つを指さしてきいた。

「カルダノだよ」

「カルダノですか。カルダノは数学者で天文学者でしょう? 違いますか?」

「しかし、ペテン師でもある」スカリゲルは怒りもあらわに言った。「カルダノは、『精妙さについて』 という本で、悪魔のことを書いているが、その一節はわたしの書いたものからそのまま盗用している」

「盗作とはけがらわしい行為ですね」ミシェルが答えた「あなたは、人文主義に関して、どんな本を書かかれているのですか?」

「たくさん書いているが、なかでも重要なのは、フランスだけでなく諸国で出版された書物すべての概要を記したものだ。わたし自身も、エルスムスとならんで、今世紀ヨーロッパの偉大な思考家といわれているのだよ」スカリゲルは豪語した。

「今世紀ですって?」

「ぼくは、へたに謙遜したりしない」スカリゲルは言いきった。この我の強いユマニストに、ミシェルは微笑みかけざろうえなかった。二人の科学者は互いに話し相手として不足はなく、アリストテレスの医学書についてしばらく語り合った。二人はうまがあい、これからはもっと頻繁に会おうということになった。その後の数か月のあいだに二人の親交は深まった。

ある日、スカリゲルは、ミシェルを秘密の書庫に案内した。スカリゲルがその書庫を隠しているのは、そこには教会の権威を脅かすと考えられている書物があったからだ。

「ミシェル、これは、コペルニクスの文書だ。この画期的な文書で、コペルニクスは、『太陽が宇宙の中心である』と記している」

「実際のところ、秘教の信者と天文学者の間でも、太陽は星の一つにすぎないと考えられています」ミシェルが言った。「でも、科学者は、証拠がなくては納得できず、こんな夢物語をどう扱ってよいか困っているのでしょう」

「実のところは、夢物語もとても役に立つのだがね」スカリゲルは答えた。「いつか、きみもそんな夢物語を書きものにするといい。書くことによって自分が成長するよ」


 そして、ミシェルの娘イザベルが生まれた。イザベルは太陽のように輝き、日に日に成長をとげた。イザベルはまるで宇宙の中心のようで、ビクターはそのそばを離れなかった。子供がいない女中は、この愛らしい女の子をわが子のように可愛がっていた。

ノストラダムス一家は、家族も増え幸せな家庭を築いていたが、外の世界ではよくないことが起こりつつあった。アジャンの町に、これまでその害をのがれてきたペストがついに襲いかかったのだ。

 ペストの最初の患者が見つかるとすぐに、市民生活はきしみ始めた。ペストの感染を恐れて、市民は他人との接触をできるかぎり避けようとしていた。患者は急増しているので、それは当然のことであった。

 ミシェルは、斬新なアイデアをもってペストに立ち向い、状況に屈することなく、患者から患者へと休みなく働いた。まず、市の公認医師として市内各所に隔離所を設けた。市内には、すでに数百の犬や猫の死体が放置され腐りはじめていた。ミシェルは、ペストの感染を防ぐために人間と動物の死体を石灰の間に埋葬するように命令した。また、ねずみやのみの繁殖を防ぐために、ゴミを焼却するようにも命じた。このため、町には常に煙と火の匂いがたちこめていた。そして、ミシェルはペスト患者には、にんにくとアロエで作ったクリームを体に塗るように指示した。また、衛生と栄養の重要性はミシェルが常に教えていることだが、それをさらに強調した。市民の多くはミシェルの指示に従ったが、なかにはミシェルを信用せず、この惨事の責任を転嫁するために、いけにえを求める市民もいた。

ついに、暴動が起きた。ノストラダムス一家の住むまさにその広場でだ。ミシェルはその物音をききつけて、窓から外をながめて目を疑った。噴水のそばに火あぶりのための柱が用意されている。時をおかず、大勢の人々がそのまわりに集まり、二人の男がその前に引きずり出された。アジャン市民は激怒し、胸もはりさけんばかりに叫んでいた。ミシェルは、市民が自ら判事と陪審を演じ、刑を執行しようとしていることに気づいた。暴動は手に負えなくなってきている。

「なんてことだ、アビゲイルが捕まった」ミシェルが突然叫んだ。哀れな犠牲者の一人は、友人の本屋のあるじであった。アビゲイルにあらゆる暴言が浴びせかけられ、ミシェルの怒りは煮えたぎった。ヨランダが心配してミシェルのそばに寄り添った。

「ここにいてくれるでしょう?」おびえたヨランダが頼んだが、怒りを抑えきれなくなったミシェルは、その言葉に耳も貸さず、広場に走り出た。そこで、かろうじて良識を取りもどし、冷静に行動するよう自分自身に言いきかせ、なんとか控え目な態度で人ごみをかきわけていった。

「こいつら、腐れきったユダヤ人のせいで、こんな目にあっているのだ、火あぶりにしてしまえ!」群衆の一人が憎しみをこめて叫んだ。ヨランダはなすすべもなく見つめていた。どうかけんかになりませんように、ヨランダは恐れおののき祈っていた。二人のユダヤ人は柱にしばりつけられ、群衆の一人が柱に火をつけようとした。

「待て!」ミシェルが叫んだ。その命令の抵抗しがたいひびきに群衆は静まり、引き下がってミシェルのために道をあけた。なにしろミシェルは、ド・バーデモント家の婿なのだから。ミシェルは、唯一、彼の道をさえぎっている扇動者に脇によけるように冷やかに命令し、柱によじ登り、渾身の力をふりしぼって不運な二人をしばりつけているロープを引きちぎった。ミシェルは旧友アブリゲルにしばし目を向けた。アブリゲルもミシェルを見つめた。その眼は信仰心にあふれ、光が輝きだしていた。

「どうしたことだ」その眼の強烈な美しさに、一瞬ミシェルの心が乱れた。

 いけない、狼のようなやつらに弱みをみせてはいけない。ミシェルは、群衆のムードが変わってしまったかもしれないと身構え、決然とした態度で群衆に振りかえり、力強く話しだした。

「ペストはユダヤ人のせいではない。もしそれが本当だったとしても、まずそれをきちんと証明しなければいけない。きみたちはみんな、恐れと怒りに翻弄され狂乱状態にあるのだ。家に帰って正気をとりもどしなさい。二度と治安を乱すようなことをしてはいけない」

 群衆は、熱狂から我にかえり意気消沈して向きをかえて広場を後にした。広場はからっぽになった。

 無事、ミシェルが家に帰り、ようやくヨランダは極度の恐怖から解放された。

「こんなことはもう二度としないと約束して!」まだふるえがおさまらず、ヨランダは懇願した。

「あの二人を暴徒の餌食にするわけにはいかなかったのだよ!」

「あなたが死んだら家族はこまるわ!」

「ぼくは死んでないよ」ミシェルはからかった。からかわれたヨランダはミシェルに枕を投げつけた。


その後も、ペストは猛威をふるい、ミシェルは昼夜をとわず働き続けていた。

 数週間後、ノストラダムス一家に悲運が訪れた。ヨランダとビクターが病にかかったのだ。夜遅く、仕事から帰ったミシェルはこの事実に直面した。蒼白になって、ミシェルは恐れていた病の診断を下した。

「ペストの畜生め」台所で一人になるとミシェルは毒づき、こぶしで壁を殴りつけた。ペストと戦う医師が自分の家でその戦いに敗れるとは過酷なめぐりあわせだ。ミシェルは、ひどく動揺し、この悪い知らせをヨランダに告げた。

「ぼくは患者ばかり診ていて、きみたちのことを気にかけていなかった」ミシェルは嘆いた。

「ミシェル、自分をせめないでちょうだい、イザベルと一緒にしっかり生きていくと約束して」

「きみなしでは生きてはいけないよ!」

「あなたは強い人だから、高次元の自己意識があなたを支えてくれるわ」ヨランダはミシェルをなぐさめようとしていた。ミシェルは二人の身体にあざがあらわれるとすぐにそれを消毒し、思いつくかぎりの滋養に富んだ食事を作り、最後の瞬間まで、望みを捨てず奇跡を祈り続けた。しかしその望みはかなえられなかった。ミシェルの腕の中で、彼の愛する花、ヨランダは、みるみる色あせ、ついに息をひきとった。ミシェルはヨランダの目から最後の光が消えるのを、その魂が彼女の身体を離れていくのを見守った。

翌日、ビクターもこの世を去った。ミシェルがビクターに最後のキスをしていると、彼を呼ぶイザベルの声が聞こえた。ペストの感染を避けるために、イザベルは自室に閉じ込められていたのだ。

精神的に打撃を受けたミシェルは、ド・バーデモント家の墓に埋葬して欲しいという、ヨランダの願いをかなえるために、イザベルの世話を一日召使いにまかせ、ヨランダとビクターの遺体をピュイべールに運んだ。

ド・バーデモント一族は、棺をのせた荷馬車が近づいてくるのを恐れおののいて見守っていた。もちろん、一族は何が起こったのかわかっていたが、ペストへの恐怖から門は閉ざされていた。

「わたしたちにとっても耐えがたい痛手だが」伯爵が窓から叫んだ。「ここにも守らなければならない、愛する家族がいるのだ」

「わかりました。どなたか、安全な距離をおいたところにお墓を掘るのを手伝っていただけませんか?」義理の息子であるミシェルが頼んだ。

「すまないがそれはできない。幸運を祈るよ」伯爵は無情にも会話を切り上げて鎧戸を閉じた。寡夫となったミシェルはつらさをこらえ、たった一人で、妻と息子を門のすぐ脇のド・バーデモント家の墓に葬った。ヨランダの家族は城からひそかにそれを見ていた。

 アジャンに戻ったミシェルは娘の世話をはじめた。いまや娘イザベルはミシェルの唯一のいきがいであった。

町で根も葉もない噂が広まっていた。ノストラダムスはヨランダの遺体を埋葬すらせず、その遺体は、父親によってド・バーデモント家の墓に埋葬された、という噂だ。

その夜、女中がミシェルの部屋の扉を叩いた。ひどく落ち込んでいるミシェルが扉を開け、何事かたずねた。

「先生にご忠告したくて。ド・バーデモント一族は、市民をあなたに歯向かうように煽っています。一族は、あなたが結納金を持ち逃げするために、わざと奥さまを見殺しにしたのだと訴えているのです。その上、あなたがユダヤ人と友達だという噂もたっています。あなたがいい人だと知っているので、お知らせせずにはいられなかったのです」そして、女中は逃げていった。ミシェルは表戸にかんぬきをかけると、考え込んで家の中を歩き回った。そして、最悪の事態に備えた。

 二階の寝室でミシェルは静かに眠るイザベルの無邪気な小さな顔をみつめていた。ヨランダとビクターの死後はじめて、ミシェルの目に涙が浮かんだ。開いた窓からふきこむ風がその涙をかすめていった。

 突然、その静けさが破られ、地獄がおとずれた。大勢の怒り狂った市民がかがり火を手に、悪意のこもったときの声をあげながら家の前に集まってきたのだ。

「殺し屋」群衆は叫んだ。「死刑にしろ」ミシェルは片目でカーテンの陰からのぞき、群衆を見た。

「あいつをつかまえろ」誰かが叫ぶのが聞こえた。逃げるなら今しかない。かんぬきをかけた表戸は暴徒の押し破ろうとする勢いできしんでいた。そして燃えさかるかがり火が家に投げ入れられ、ミシェルをかすめた。

 瞬きする間もなく、ミシェルは驚いて目を覚ましたイザベルをだきあげ、静かにするようにいいきかせ、背中にくくりつけた。そしてベッドの後にあるタンスの引出しをこじあけ、食糧の入ったカバンをつかむと肩にかけ、イザベルを背に屋根裏にかけ上がった。

 寝室のカーテンにはすでに火がまわり、その数分後には家中が火につつまれた。暴徒はいまや表戸を壊して家に押し入り、一階で、悪魔の魔術師、ノストラダムスを探していたが、燃え上がる炎のために、上の階にあがってくる勇気のあるものはいなかった。

 その間に暴徒の目をかすめて、イザベルを背負ったミシェルは、家の裏側の屋根に上り、隣の屋根に飛び移った。こうして、幸いにもその夜は闇夜だったので暴徒に見とがめられずに、ミシェルは隣接する家並の屋根をつたって燃えさかる家から逃げ出すことができた。

 しかし途中でこの暗闇のためにミシェルは足を滑らせ、あやうく屋根から落ちるところであった。ようやくのことで、家並の端の家にたどり着き、その家のバルコニーに降り、そこからブドウのつるをつたって、ミシェルが地面に降り立とうとしたときであった。

「いたぞ!」めざとい暴徒の一人がミシェルの影を見つけて、突然叫んだ。その声にノストラダムスの家の前でまだ叫び続けていた暴徒たちもミシェルの姿を見つけ、すぐさまかけつけた。体の柔軟なミシェルは地面に飛び降り逃げだした。ミシェルは、入り組んだ小道と裏道で追手をまいて、脱兎のごとく町の外へと逃れた。追手は追跡犬にミシェルの靴下をかがせた。犬はすぐさまその匂いをみつけ、追跡がまたはじまった。

「あの人たちはどうしてあんなに怒っているの」イザベルがきいた。

「ぼくたちのことが嫌いなんだ」追手から逃げおおせたと思いこんだ、ミシェルは答えた。

「でもどうして? わたしたちは何も悪いことをしていないわ」

「そのとおりだが、あの人たちの考えは違う」

そのとき、恐ろしいことに、近くの谷に追手の姿が現れた。ミシェルは急いで森の中を進み丘にのぼったが、そこには台地を分断する亀裂が走り、行く手は深い断崖にはばまれている。ミシェルは崖ふちを行ったり来たりして必死に逃げ道を探した。犬の吠える声が次第に近づいてくる、早く何か考えつかなければならない。

よし、この断崖絶壁をおりるしかない、ミシェルは決心した。ミシェルは、崖っぷちに手をかけ崖にぶらさがり、足で足場を探った。その手が滑りそうになった。

足がかりがあった! 極限の集中力を駆使してミシェルはむちゃな下降を始めた。その背中でイザベルは谷間を見下ろしおびえていた。追手は急速に距離を縮め、すぐにその崖の上にいきつき、二十メートル下の垂直に切り立つ崖の最後の部分をくだるミシェルを発見したが、その姿は木々のしげみのかげに消えた。月が雲のかげに隠れ、もうその姿を眼で追うことはできない。

追手には、ミシェルを追って崖を降りる勇気はなかった。ことに犬を連れていては不可能だ。追手の中に、わが手の内のようにこのあたりに詳しいものがいて、近くの小道を指し示した。彼らは二手に分かれ、追跡を続けた。

 その数マイル先では、ミシェルは岐路にいきあたり、どちらの道を行くか選択をせまられていた。一方は下り、もう一方は上っている。高い木々に視界をはばまれ、どちらの道もそのいきつく先はよくわからない。ミシェルは下り道に賭けることにした。

 選んだ道をたどるとすぐに、二つの台地の間の亀裂を渡ることができるところが見つかった。しかし、回り道をした追手のグループもまた、その道を見つけていた。犬の吠える声もまた聞こえる。すでに長い距離を逃げてきてミシェルは疲れていた。そう長く、逃げ続けることはできないだろう。月がまた顔を出し、すぐそばのほら穴を照らしだした。その息が首にかかるかのように追手を間近に感じ、ミシェルはそのほら穴に身をひそめた。運がよければ、ひょっとすると……? だが、また追手に見つかってしまった。

「あそこにいるぞ!」だれかが叫んだ。ほら穴の中で、ミシェルは必死になってカバンの中を探り、ろうそくを取り出し、すぐさま、火打ち石で火をつけた。ほら穴の中では光が必要だったしミシェルは、何より大事なイザベルを背負っていた。ミシェルは、ほら穴の中を進んだ。その先には地下道がクモの巣のようはりめぐらされていた。

「しまった、火が消えてしまった」ミシェルは毒づいた。「速く歩きすぎた」ミシェルはろうそくに火をつけなおすと歩き続けた。突然、背後に叫び声が聞こえた。

 なんてこった、やつらはすぐそこまで来ている、まったくついていない、ミシェルはつぶやいた。追手はもうほら穴の中だ。犬のほえ声がほら穴で不気味にこだました。こだまに惑わされ、犬は匂いを見失いかけていたが、追手はあきらめなかった。地下道の数には限りがある、彼らは、いくつかの小グループに分かれ、追跡を続けた。

 追手が近づいてくる音を聞き、ミシェルは、息をひそめ、先を急いだ。行く手に地下水が流れるトンネルがあった。流れに入ってしまえば、犬は匂いを追えないだろう。犬をまくチャンスだ。

 ミシェルはイザベルが背中にしっかりおぶさっていることを手探りで確かめ、水をかきわけトンネルの中を歩き出した。イザベルはたった2歳だったがことの重大さをさとり、黙りこくっていた。しかし、水位は急速にあがってきたし、追手は間近にせまっている。ミシェルは最悪の事態を恐れてがむしゃらに前進した。水はすでにミシェルの腰まできている。イザベルは寒さにこごえていた。もうおしまいだ、ミシェルは嘆いた、すぐにもイザベルを背から降ろさなければならないだろう。水はイザベルの口元まできている。

 降参するべきだろうか? あいつらもイザベルの命は救ってくれるだろう。でもだれがイザベルを育てるのだ? 家族をペストでなくし、魔術師と思われている、それもド・バーデモント一族から訴えられている男の娘などだれも面倒をみてくれないだろう。

 絶望しながらも、ミシェルは水をかき分けて進んでいった。突然、足がたたなくなりミシェルは泳ぎはじめた。ろうそくの火は消え、ろうそくは水に沈んでいった。ミシェルは祈った。

 神様、どうかご加護を……。あいつらは絶対にあきらめないつもりか?

 ミシェルは危険な暗がりに向かって泳いでいた。頭が天井にぶつかった。しかし、不思議なことに二人ともまだ息ができる。そして周囲が徐々にひらけていった。動く余地がもっとできたので、ミシェルは力強く水をかいて地底湖を泳いだ。

 もうだれも追いかけてこない、ミシェルは気づいた。そして、足が地にふれた。ミシェルは、すべる斜面に苦労しながらも、岸に這いあがった。

 「イザベル、逃げおおせたぞ」ミシェルは、再び希望がわき、イザベルにささやき、全身びしょねれで岸辺にたどりつくと、しばらくあたりの物音に耳をすませた。なにも聞こえない。どうやら、やつらはついに追跡をあきらめたようだ。ミシェルは、一息ついて、新しいろうそくをカバンから取り出した。ろうそくの芯は濡れていたがすぐに火がついた。巨大な洞窟の中に、数えきれない横穴とトンネルがろうそくの光に照らしだされた。ミシェルは急いで道を探した。石灰岩の地層は何世紀にもわたって地下水に侵食され迷路をつくっていた。

 この洞窟は数百万年も前にできたのかもしれない、ミシェルは考えこんでいた。そしてすぐに洞窟の壁が不思議な動物の絵におおわれていることを発見した。

「イザベル、前にもここに人間がいたらしいぞ」ミシェルは不思議に思ってあたりを見まわした。黒、赤、黄色で描かれた、疾走する馬や精悍な鹿は、石灰岩の光沢のある壁から今にも飛び出してきそうである。この不思議な絵は生き生きとして動きにあふれている。アーチ型の天井をすぐ向こうには、黒いたてがみをふるう紫の仔馬がまっすぐこちらをみつめていたし、白い牛が楽しそうに天井を飛び越えている。その少し先には、飛びまわる動物や倒れている動物の絵が集まっている。矢に射貫かれて倒れる身重の牝馬の絵もあった。この絵を見て、ヨランダを思い出したミシェルはすぐに顔をそむけた。

「有史前の壁画だ!」ミシェルはつぶやいた。二人は道に迷わぬようにつないだロープの端まできていた。そこでミシェルは、一晩過ごす場所をさがした。

「ハクション」突然、イザベルがくしゃみをし、その音は洞窟の中でこだました。

 ミシェルは身がすくんだ。だれにも聞かれなければいいのだが。

ミシェルは、イザベルをその背から降ろし、地面のくぼみに横たえ、上着にさわってみて、服は着たままでかわかさねばならないと判断した。ろうそくの火を吹き消すと疲れきった二人はすぐに眠りに落ちた。ミシェルは小石があばら骨にあたる痛みに目を覚ましたが、イザベルは眠っていた。

 これが悪夢ではないなんて……、ミシェルはため息をつき、最後の一本となったろうそくを手探りでさがし火をつけた。岩壁に水が湧いているのをみつけたミシェルは、それをコップにため、ようやく目を覚ましたイザベルに飲ませた。二人はカバンに入っていたパンと乾燥肉で飢えをしのいだ。二人の服はいくらか乾いていた。

出口をさがさなければならない。ミシェルはイザベルを再び背負うと、光をさがしはじめた。しかし一時間たっても出口はみつからず、最後のろうそくは今にも燃えつきそうであった。ミシェルはあてもなくあたりを歩きまわっていた。その時突然、炎が一方になびいた。出口かもしれない、ミシェルは期待をもって、微風をたどっていった。天井にあいた穴から光が差し込んでいた。青空が見える。暗闇に慣れた目には、青空はまぶしかった。

 でも、その穴までのぼる方法がない、切り立つ壁を調べ、ミシェルはがっかりした。

「待てよ」ミシェルは、カバンからナイフをとりだした。壁に足場をほることができるかもしれない。石灰岩はもろく、ナイフで削り取ることができた。壁に足場をほり終えるとミシェルは、イザベルを背に、超人的な力をふりしぼり、ゆっくりと岩壁をよじのぼった。穴にふちに手がとどいた。かべにはりついたまま、片手を外に差し出した。その手に太陽が照りつけた。

 太陽の光のおかげで、ものを見ることができるのだ、ミシェルは太陽に感謝した。そして、ミシェルは、穴のまわりを削って広げ、外に這い出した。みわたすかぎりの草原だった。ミシェルはタカのようにあたりを見まわしたが人の姿はどこにもない、ミシェルはほっとして息をついた。

「イザベル、助かったぞ、いまやすべては過去のことだ」ミシェルはイザベルを背中からおろした。ようやくイザベルは、ふたたび自分の足で大地に立ち、草原を走りまわった。あたりには家が一軒もみあたらない。

「身体を洗わなければいけないね」この先の丘には川か小川があるだろうと思い、ミシェルは言った。ミシェルはイザベルを肩にのせ歩き出した。少し歩くと二人は小川が流れる谷に行き着いた。川の水は澄んでいるように見えたので二人は川の水で喉のかわきをいやした。そして、顔を洗い、靴を脱いで足を澄んだ水につけた。ミシェルはカバンからひとかけのパンを取り出し、イザベルに与えた。カバンにはちょっとした財産も入っていた。三百フランあまりのお金だ、それは、ド・バーデモント家からの結納金であった。

 数年はこれで生きのびることができるだろう、ミシェルは見積もり、この先の計画をたてた。

 アジャンに帰ることはできない。まず、徒歩でこのあたりをはなれ、それから、馬車をみつけてサン・レミに行こう。いい考えだ。

少し先にたわわに実をつけたプラムの木があった。プラムをお腹いっぱい食べると、これまでの疲れはすこしばかりいやされた。イザベルはすでに、羽をはばたいてあたりを飛びまわる蝶々に歓声をあげている。

 人生は続く、というのは真実だ、ミシェルは切ない気持ちでイザベルを見守った。たぶん、イザベルだけがぼくのいきがいとなるだろう。

 その日、二人は丘と谷を越え、日暮れには、森林の中にひそかにたつ崩れかけた小さな石造りのあばら屋をみつけた。あばら屋に人気はなかった。一夜のねぐらには願ってもない。ここなら無事に一夜を過ごせるだろう。床には炭が残っていた。たぶん狩人がここで火をおこした名残だ。乾燥肉とプラムを食べると、あとは寝るしかない。ミシェルはイザベルのまわりに身体をまるめ、あばら屋にふきこむ風からイザベルを守った。夜中には、風が強まり、その小さなあばら屋の中を音をたてて吹き抜けた。その音に目を覚ましたミシェルは、イザベルが脇にいることを確かめて、ふたたび眠りについた。

 翌朝遅く、ミシェルは、屋根の上で歌うカササギの大声に目を覚ました。それでも、イザベルは、のぞき見みしようとすらしない。

「イザベル」ミシェルはささやきかけてイザベルにふれた。どうしてイザベルはこんなに静かなのだ?

 そして、いやな虫の知らせにミシェルは、身をかがめてイザベルをのぞきこんだ。

「いけない!」イザベルの顔の黒い斑点に気づいたミシェルは慄然とした。その声に目を覚ましたイザベルは、具合が悪いとうったえた。イザベルがペストにかかるとはあまりのことであった。ミシェルの中の心の支えがポキリと折れた。ミシェルは、呆然とイザベルを抱きしめ静かに揺すっていた。翌日、イザベルは息をひきとり、ミシェルの生きる支えもなくなった。ミシェルは、ただ座って空を見つめていた。ミシェルの頭の中では、不気味なシーンが展開され、そのシーンはいつまでも彼につきまとっていた。


「その二人をいっしょにおいていけ、そいつらは離ればなれでは生きのびられないのだから」フランス人将校が命令した。切っても切れない縁のブルーノとイブは、ぬかるみの中、台座にのった重い大砲を苦心惨憺して前線へとひきずっていた。ほこりのあがっていた地面は大雨で茶色の泥に変わり、大砲をひきずるうちに、二人の青い軍服も泥まみれになった。

「左に引け、このまぬけ!」ブルーノがイブを怒った。

「君の精神力とやらで、この仕事をかたづけてくれるのかと期待していたのに」イブがため息をついた。ようやく、大砲を位置につけ、ブルーノが弾薬を詰め、イブは銃身の先に弾丸を入れた。こつは、敵のちょうど目の前でバックファイアがおきるように弾道をきめることだ、そうすれば弾丸はちょうど人の高さを貫通する。砲兵隊全員が位置につくと、砲撃の合図をくだすために、ネイ将軍が立ちあがった。

「発射!」将軍が命令した。フランス軍の大砲が轟音をたて、同盟国旅団は目に見えて犠牲者を出した。砲兵隊のうちの四分隊がモント・サン・ジャンへと進軍するあいだも残りの砲兵はワーテルロー(1815)の戦況を見守っていた。敵旅団の二隊の騎兵隊が、思いもかけず、行軍するフランス歩兵隊に突入した。歩兵隊は急撤退の合図を打ちならした。いまや、全兵力をあげての戦闘となり、砲兵は大急ぎで大砲を再装てんしていた。

「急げ、イブ、砲弾を投げ込め!」すぐに手持ちの砲弾は底をついたが、フランス軍はイギリス軍を徹底的に打ちのめした。トランペットが攻撃の合図を吹き鳴らすと、フランス騎兵は全速力でぬかるみを蹴散らし同盟国軍を壊滅すべく猛襲をくわえた。しかし突然、まったく予期しなかった何千ものプロシア兵が森の中から砲撃をしかけ、同盟軍の窮地を救い、フランス軍を壊滅寸前の危機に陥れた。命からがら、ブルーノとイブは、大砲の下にもぐりこみ、戦乱の真っただ中、銃を構えた。

「まだプロヴァンスにいるのだったらいいになあ」黒テンの毛皮をまとったフランス軍将校が二人の目の前で敵に倒されるのを見ながら、イブが夢見るように言った。しかし、ブルーノがそれに答える機会はなかった。まさにそのとき、敵の砲弾がブルーノに命中したからだ。ブルーノの腕と脚はちぎれて空中に飛び、頭だけがイブのそばに残った。


 ハッとしてミシェルは我にかえった。恐ろしい悪夢だ。ミシェルは、その脇の腐乱しかかりハエがたかったイザベルの死体を見つめた。

「どけ!」ミシェルは気が狂ったように叫び、腕を振りまわしてハエを追い払おうとした。ミシェルは正気を失っていた、そこにどれだけ座っていたのかわからない。ミシェルは立ち上がって、イザベルの遺体を抱き上げると、野原のひらけたところに埋葬した。

「わが子よ、安らかに眠りたまえ」少し落ち着きを取り戻したミシェルは語りかけた。「おまえの命は短かった。今、わたしはおまえに別れ告げ、おまえのそばをはなれなければならない。人生を歩み続けなければならないからだ」木の枝で作った十字架を小さな墓にたてると、ノストラダムスはカバンを取り上げ歩き出した。そして、数歩歩んで振り返り、イザベルの墓に最後の別れを告げた。いまや、ノストラダムスは世捨て人だった。ノストラダムスの彷徨がはじまった。




第4章