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  第1章


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Eric Mellema
www.nostredame.info

英日翻訳 ラリス 資子





第2章




ジャンの死から数ヶ月が過ぎ、16歳になったミシェルは占星術を学ぶためにアヴィニョンへと旅立った。大学で占星術を専攻するというミシェルの変わった選択を両親は不承不承ながらも許したのだ。アヴィニョンは、サン・レミからたった20マイルしか離れていないので、頻繁に両親や兄弟を訪問することもできるであろう。アヴィニョンは法皇邸がある重要な都市である。1304年以来、ローマでは生命の危険を感じたフランス人の歴代法皇とカソリック指導者はアヴィニョンに居を移していた。以来、この町とその周辺は法皇領となっている。
 ジャックは、彼の顧客の一人であり6ヶ月前にペストで夫を亡くした、プロンベール未亡人が娘とともに、親類を頼ってアヴィニョンへ引っ越すことを聞きつけた。ミシェルは、未亡人の引越しの手伝いをする代わりにアヴィニョンまで馬車に乗せて貰うことができる。ミシェルはこの取り決めに同意し夫人と日取りを決めた。プロンベール夫人は、先週すでに家の整理を終え、すべての荷物をまとめて若き旅の同行者、ミシェルを待っていた。
 出立の朝、ミシェルは、プロンベール家を訪れ、夫人の指示に従い、年代物の壊れかかった馬車に夫人の荷物を積み込んだ。思いがけず隣人も手を貸してくれたので、すべての荷物はすぐに積み込まれた。
 夫人は、2人の娘と共に御者台に着き、ミシェルが家族に別れを告げられるようにレムパート通りへ馬車を進めた。
 ミシェルの家族は、馬車に慣れない夫人が馬を止めるのを待ち構えていた。ミシェルは馬車を飛び降り、父親と母親を抱擁した。母親は別離の寂しさに隠せずにいた。

「これから先、お別れを言う機会が増えそうだわ」レニエールはその美しい顔を涙で曇らせ嘆き悲しんだ。

「すぐに戻ってくるよ」息子は約束した。

「そう願うよ」父親は、息子を固く抱きしめた。大学生になりたてのミシェルが兄弟に別れを告げると出立の時が来た。一家は、馬車が視界から消えるまで手を振りミシェルを見送った。
 サン・レミからいくらも離れぬうちに、雨が降り出した。雨は土砂降りとなり、あたりもにわかに暗くなり一行を脅かした。幸いにも、夫人は雨に備えていたので、ミシェルの助けをかりて荷台をキャンバスで覆った。天を裂く稲妻に馬は落ち着きを失い、夫人は馬車の制御に苦心していた。5歳と7歳になる子供たちは、キャンバスの下で身を縮めていた。道にあふれる雨水で、馬車を進めることは困難を極めた。彼らは窮地にたたされたようである。
 旅も半ばに差しかかった頃、道の両側に気味の悪い炎が燃え上がっているのが見えた。死体を燃やしているのだ。ペスト、この人類史上最悪の疫病が、再び猛威をふるい、ヨーロッパ全体を恐怖に陥れていた。夫人は、誰よりもこの炎の意味を知っていた。ペストの感染を防ぐために彼女の夫が荼毘に臥されたのは、最近のことだ。しかし、彼女は果敢にも恐怖に耐え馬車を進めた。
 突然、離れたところから悲鳴があがった。だれが助けを求めているに違いない。だが、一行はそれを無視して旅を続けることにした。いつになく雨は激しく降りしきり、それに追い討ちをかけるように突風に見舞われた。馬はぬかるみに脚をとられながらも、かろうじて馬車を引いていた。馬は疲れきり、1メートル先に進むことが、あたかも大勝利であるかのようだった。嵐はさらに荒れ狂い、あたり一面に枯れ木や枯れ草が舞い上がった。

「この世の地獄とはこのことだわ」時折、夫人は怒りをもらしていた。幾度も瓦礫に道を阻まれ、その都度、ミシェルは瓦礫をどかした。何時間にも及ぶ嵐との苦闘の末、疲れきって濡れねずみとなった一行はようやく法皇領に達したが、苦難の旅はまだ終わったわけではない。ローヌ川を越えねばならない。向かい風に行く手をはばまれながらも、一行は有名なアヴィニョン橋に到達した。ここまで、夫人とミシェルは、交互に手綱をとっていたが、風が吹きすさぶ橋を前に、夫人は自ら馬車を御して橋を渡ることをかたくなに主張した。夫人が荒れ狂う川を渡ろうと馬に鞭を入れたその瞬間、ミシェルがいきなり叫んだ。「止まれ」夫人はすぐさま手綱を引いた。馬がいななき、馬車は急停止した。末娘が泣き出し、姉は懸命に幼い妹を慰めた。

「いったいどうしたわけなの」母親は驚いて尋ねた。ド・ノートルダムは、何も言わずに泥の中に飛び降りると、恐れを知らぬかのように、嵐の中を外套をなびかせ確固たる足取りで橋に向かった。そして石の橋脚のもとで立ち止まり道に見つめた。増水した川の流れを感じ取るとミシェルは馬車へ戻った。

「何をしているの?」プロムベール夫人は叫んだ。

「荷物を馬車から降ろしなさい」彼は答えたが、激しい風に彼の声はかき消された。

「気でも狂ったの?」

「今にも橋が崩壊しそうです」ミシェルは御者台に乗り込み説明した。

「何をバカなことを。何十年と荷馬車が橋を往来しているのよ」夫人は怒りもあらわに反論した。夫人に抵抗するためにミシェルは荷馬車から飛び降り、腕組みをして泥の中に座りこんだ。しばし思いあぐねた後、夫人は、彼の言うなりになることにした。

「しょうがないわ、その代わりあなたが働くのよ」夫人が命じるとすぐにミシェルは、荷物を対岸へ運び始めた。母親は、キャンバスの下から子供たちを抱き上げ、手をとって、彼らの奇妙な同行者の後を追った。対岸に着くと、夫人と娘たちは、岸壁の脇に避難場所を探し、その間にミシェルは馬と荷馬車のもとへ戻った。
 ミシェルは、橋を何度も往復し家財道具一切を運び終えると、長いロープに馬をつなぎ橋に向かって歩き出した。彼らの頭上には暗雲が流れ、馬は動こうとはしなかった。ミシェルは、強く馬を引き、拍車をかけた。馬は嵐に怯えながらも恐る恐る歩きだし、それにつれて馬車もゆっくり動き出した。彼らは橋に近づいた。古い橋は堅固で壊れる気配などない。ミシェルは馬と馬車を引いて橋を渡った。
 何事もなく橋を渡り終えると、渋い顔の夫人は、その後一切ミシェルと口をきかなかった。荷馬車に荷物を積み込み一行は旅を続けた。ようやく、大都市、アヴィニョンに近づいた。
 ちょうど日暮れ時に彼らは目的地に到着し、時をおかずミシェルはプロンベール家族と暖炉にはぜる炎の前で暖をとり一息ついた。食事を取りしばしの休息をとれば、彼らの道は別れていく。ミシェルは、夫人の親切と荷物を運んでもらったことにお礼を言い、大学に向かって歩き出した。
 町の中心では、市長が最新ニュースを告げていた。ミシェルは集まってきた群衆に連なった。市長はもったいぶった様子で、巻紙を開いた。

「今晩、アヴィニョン橋が崩壊し7名の死者がでた」市長が話し始めた。「橋は、1226年にも崩壊している。皆もわかったであろう。あの橋は神の思し召しにかなわんのだ。かつて、橋を建築したベネゼを聖人としたのは間違いであった」
 群がる聴衆にミシェルの視界は阻まれたが、もう十分話を聞いたミシェルはその場を立ち去った。


川にそびえる断崖の上に歴史をたどるアヴィニョンは、辛らつな気風を持つ町であった。かつては、ケルト族の中心地であった町は、ケルン、リヨン、アルルを結ぶ、有名なアグリッパ街道に位置しているにもかかわらず、よそ者を受け入れない。昔、お祖父さんは、アヴィニョンっ子の無慈悲さを「パリでは人は議論する、アヴィニョンでは人に刀を突き刺す」と評したものであった。
 ミシェルは気持ちを落ち着けようと法皇公園のベンチに腰を下ろした。大学の門をくぐる前にその門の前にある樫の木を一心に眺めていた。最近、ミシェルはよく夢を見るが、もはや夢と現実の区別を付け難いときすらある。これを明確に区別する方法を見つけなければならない。占星術を学ぶことはその助けとなるかもしれない。
 ひとしきり物思いにふけった後、ミシェルは、教官に会い、その助言に従い、大学に程近い小道、アグリコル通りの小部屋に居を定めた。その日から毎日、市街を通り大学に通った。
 町の上に張り出した崖の上にある岸壁公園からは町の概観をつぶさに見ることができる。ここから町を探索するのは容易であった。ミシェルは大通りを散策することを好んだ。歩きながら学んだことを熟考することができるからだ。彼は学生の大半と調子を合せていたが、学生たちはすぐに、ミシェルの並外れた知能に嫉妬を覚えるようになった。
 占星術の奥義を教える大学に入学して最初の数ヶ月の間に、ミシェルは有益な知識を体得した。ミシェルは、人間が合計7種の様々な形態を持っていることを学んだ。実態、存在維持、幽体、精神、そしてより高次元の形態であるカウザル、ブディ、アトマである。この7つの形態は、意識の7つの状態を表しており、惑星と星もまた、この7つの形態から成り立っていることを教わった。すべての形態は、互いに繋がりを持ち、少なくとも催眠状態では、すべての人間に存在する。人間の実体は目に見える肉体であり、最も未熟な状態である。存在維持は、肉体を維持し肉体が必要とするエネルギーを与える。感情と繋がる幽体は主として夢の世界に現れる。精神は人間の思考を表す。カウザルは、思考が原因と結果の因果関係の境地に達した時のみに到達できる状態である。ブディは真に目覚めた状態、アトマは生命の呼吸であり、人間がこの7つの状態を会得し、自我を消失したときに達する境地である。興味深い理論であるが、残念なことに実例がない。

ある日、ミシェルは運動をしようと、早朝5時に時計広場を訪れた。この時刻の時計広場は、まだ人に汚されておらず清浄で、だれに邪魔されることもなかった。運動を終えて爽快な気分で、街路を抜け町の城壁の外側へ出た。するとどこからともなく、衛兵に守られた数台の馬車が現れ、奇妙な場面が繰り広げられた。大柄な男たちが大急ぎで、疲弊した馬を新しい馬に交換している。その上、一台の馬車の中には短躯だが太った男が2人の強面の衛兵に挟まれ座っていた。男の胸はたくさんの勲章で飾られていた。
 男は何か罪を犯したに違いない、ミシェルは確信した。この護送隊は、市民のいらぬ関心を惹かないように早朝に到着したのだ。馬の交換と、蓄えの積み込みには時間がかかった。その間、ミシェルは、興味深く囚人を見ていた。この男は誇大妄想癖があるらしい、皇帝の貫禄を備えている。
 いきなり、あたりは大騒ぎになった。サン・ラザール広場から、大勢のアヴィニョンっ子が「コルシカ生まれのちんちくりんの伍長」に復讐しようと駆け寄ってきたのだ。衛兵は暴動を抑えようとしたが、逆上した市民を取り抑えることはできず、暴徒は馬車を囲み、着飾った囚人をあらゆる名において罵った。また別の一団は、男に向かって石を投げつけたり、刀で脅したりしていた。ともするうちに数名が馬車に飛び乗り、囚人の名誉勲章を引き剥がし始めた。そこへ、急を聞いて駆けつけた将校が現れ、かろうじて暴動を鎮静した。最後の馬が大急ぎで繋がれ、衛兵が馬車から暴徒を引き離し、ようやく、「ちんちくりんの伍長」を乗せた馬車は、包囲を逃れることができた。他の馬車も次々と後に続いた。
 ミシェルはこの出来事ついて考え込んでいた。

「おいお前、そこに根でもはやしちまったか?」いきなり職人が悪態をついた。

「たった今の暴動を見なかったのか?」

「うんにゃ、俺にはよそ者しか見えん。よそ者がわしらの縄張りに入るのは気に入らん」職人は荷車を引いて立ち去った。昔ながらのアヴィニョン気質だ。

たった今見た奇妙な暴動(1814年失脚した皇帝ナポレオンはアヴィニョンで石を投げつけられるところであった。)は、ミシェルの幻覚以外のなにものではなかった。


最初の学期の終わりには、教師たちはこぞって、若きド・ノートルダムをほめちぎった。それは素晴らしことであったが、すでに祖父から占星術について深い教えを受けていたミシェルには教師が教えることはあまり残っておらず、ミシェルも彼らがさらに自分の知識を広げくれるものとは期待していなかった。
 幸い、大学にはミシェルがこれまで想像したことすらないような素晴らしい3階建ての図書館があり、ミシェルはここで古文書を調べて時を過ごすことを好んだ。教師たちもミシェルに関連分野について独自の研究することを薦めた。教師たちの指示で、グリムベルト氏-司書である彼は持病のために震えが止まらない-は、図書館の離れた一画に一連の書物を集め、ミシェルがだれにも妨げられず研究ができるようにはからった。すぐにミシェルは積み上げられた書物に没頭した。これまで、祖父が書いた書物の他には聖書しか深く勉強したことがなかったミシェルには願ってもないことであった。
 しかし、結局のところミシェルが本当に興味を持ったのは錬金術についてのある書付のみであった。錬金術と聞いて、陳腐な発想ではあるが、だれもが年老いた髯の魔術師が埃だらけの古い実験室で奇異な実験をしている姿を思い浮かべるであろう。しかし、その書付は彼のそんな錬金術への先入観をくつがえしミシェルの研究心をかきたてた。
 その書付によると、錬金術は十字軍遠征ののち、アラビア人によってスペインに紹介された。そこで、ミシェルは何日も費やし、スペインに関する書物を徹底的に調べた。調査を進めるうちに、12世紀にアルティフィウスによって書かれた「人間の寿命を延ばす術」というタイトルの文書に目を奪われた。この興味深い文書はラテン語で書かれていたが、ラテン語には慣れ親しんでいたミシェルはすぐに読み始めた。

「余、アルティフィウスは、これらの術すべてをヘルメスの魔術の書によって学んだ。これまでの長い人生で、完璧なる錬金術を欲する民に行き会ったが、余は多くの民がこの術を手にできるようにこの術について書き残すことを望まない。なぜならば、錬金術は、神または、マスターにのみ明かされるべきものであるからだ。よって、博識で自由な精神をもったもののみが読むときに限り余の書は有益である。余もかつては他の者と同じように嫉妬を覚えたものである。余は千年に渡る年を神の情けのみによって生きてながらえている。」

この男はメトセラと同じくらい老齢だ、ミシェルは興奮した。彼は、この2冊の本を読むことを心に決めたが、根気よく探したにもかかわらず、これらの本を見つけることはできなかった。

ヘルメスが書いた本は、おそらく存在すらしないのであろうと考え、代わりに見つけ得るすべての錬金術に関する文書を読むことで我慢した。
 ある文書では、「賢者の石」と呼ばれる神秘の物体を使うことにより、金属を金に変えることができると記されていた。何世紀にも及ぶ探索にもかかわらず、この石はいまだに見つかっていない。13世紀には、ほとんどの錬金術者はこの石の発見を諦めていた。
 他の文書では、錬金術は医学的効果があると記されていた。塩、硫黄、水銀を正しい配合で摂取すれば、人間の健康に良い効果があるというのだ。
 ギリシャ哲学者のタレスとアリストテレスは、地球、水、空気、火が基本要素であるとし、すべての物質はこれらから創造されると述べているし、他の文書では、5つ目の要素、エッセンスを言及している。今日のところは十分に読んだ。ミシェルは本を閉じた。

「グリムベルトさん、ありがとう。また明日」また一日が過ぎ、疲れを感じたミシェルは、サン・アグリコル通りの質素な部屋に帰り、温かい粥を作って食べた。
 彼は、ヘルメスの書物を思い瞑想してみたが何も起こらず、次に「賢者の石」を試してみたが、思わず居眠りしてしまっただけであった。

その夜、彼の望みはかなえられた。ミシェルの迷える魂は、崇高で力強い何かに触れ、彼は身震いしベッドに起き上がった。

「ミシェル・ド・ノートルダムよ。我こそがそなたが探し求めている者である。余はヘルメス。ゼウスとタイタンの一人であるアトラスの娘マイアの息子である」ミシェルの目の前には、羽のついた帽子を被り、蛇の巻きつく杖を手に、筋骨逞しく光輝く人物が座っていた。ヘルメスは続けた。「余は3つの世界の主導者である。アルカディアの洞窟に生まれ、神々の中では最速であり、泥棒の神でもある。エジプト人は余をトート、ローマ人は余を火星と呼ぶ。余は、創世記によるところのヘルメス・トリスメギトスである。余は、「石への望み」、「賢者の石」そして、「エメラルド・タブレット」である。現世における我が弟よ、お前の運命は定められた。お前には、来るべき次世紀に地上で再現される宇宙のドラマの役が与えられた。しかし、月が満ちるまでの間は別の方向へと進みたまえ、黒死病によってお前の眠っている知能が目覚めるまで」ヘルメスは出現した時と同様にいきなり姿を消した。後には巨大な虚無が残った。ミシェルは、この強力で超自然的な対面に耐え切れず、その場に倒れこみ、翌日の昼過ぎまで目覚めなかった。気分がすぐれなかった。それでも、つまずきながら立ち上がり、かばんを手にし、大学へ行き勉強にしようとしたが、もうすでに大学に行くには遅すぎるし気持が混乱しているので、再びベッドに腰を下した。

「ひどく気分が悪い」彼はうめいた。苦労して、昨夜のヘルメスからのメッセージを思い出したが、その意味は理解できなかった。
 その頃サン・レミでは、高次元の力に動かされ、父親は息子があまり実用的ではない学問を学んでいることを気に病んでいた。占星術は科学として認められつつあったが、実際に役に立つものではない。彼は、レニエールに相談した。初めは、レニエールはミシェルの選択を支持していたが、ジャックが占星術を学んでも将来は覚束ないという事実を繰り返すと、ついに彼女も占星術の不利な点はその利点を上回ることを認めた。
 彼らは、息子に手紙をしたためた。その中で、彼らの心配を述べ、医学を勉強することを薦めた。結局のところ、両祖父は医者であったのだから。
 翌日ミシェルは手紙を受け取り、両親の学問の道を変えたらどうかという提案を読んだ。彼は、ヘルメスが進路を変更するように語ったことを思い起こしその偶然に驚いた。

医学こそ我が道である、彼は結論を出した。翌日、彼らの信用を傷つけないよう気を使いつつ、教師に相談した。教師たちもミシェルの両親の説に理解を示し、ミシェルは和やかにアヴィニョンの学び舎を後にした。


短期間、家族のもとに滞在した後、すぐにミシェルは、次の大学があるモンペリエへと旅立った。

「ようこそ、ド・ノートルダムさん」ミシェルが入っていくと、大学の職員は親しげに挨拶した。
「すぐに教室にご案内します。あなたが最後ですから」ふくよかな彼女は、やっとのことで椅子から立ち上がり彼を案内した。彼らは主廊下のつきあたりを曲がった。

「講義はすぐに始まります。ハシェ教授が講義します」彼女は告げた。彼女はミシェルを後方の教室に連れて行き、非常に生き生きとした目の青年の脇に座るよう空席を指差した。
 職員とは異なり、ハシェ教授は生徒に挨拶するでもなく、すぐさま授業を始めた。

「数千年前、人類最初の医者は、患者の頭蓋に穴を開けることにより病気の治療を試みた」彼は言った。ミシェルの隣のフランソワは、わざとらしく彼の額を指した。

「その通り、このことがその身振りの所以だ」フランソワの行動に気付いたハシェが言った。

「しかし、まったく的が外れているわけではない。病気の元と考えていた悪霊を身体から追い出そうとしたのだ。これを穿頭と呼ぶ」トゥルーズから来た学生が手を挙げた。

「質問は、講義の後で聞く」教授は言った。

「古代ギリシャ時代においては、病人は寺院へ行き、医学の神アスクレピオスに生贄を捧げ、治癒の水を飲み、その水で身を清め、厳しい食事制限に従った」同じ学生が手を挙げた。

「私がたった今言ったことが聞こえなかったのか?」教授は言った。

「私は、悪霊を腕から追い出そうとしているだけです」学生はおどけて言った。

「すぐに出て行きなさい」ハシェは予想以上に厳格であった。学生は、青ざめて立ち上がり教室を後にした。

「くだらん冗談は私の授業では許さん」教授は講義を続けた。

「紀元前400年には、ギリシャの医師、ヒポクラテスが科学的医学の基礎を築いた。彼は、病は悪霊によるものではなく、自然の摂理であり、自然の力においてのみ治癒が可能であると説いた」学生たちは一団となり沈黙を守っていた。

「紀元200年ごろ、やはり、ギリシャの医師、ガレノスは、四体液説を説いた。これは、人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁の4つの液体、つまり体液から成り、これらのバランスを保つ必要があるという説である。これで、医学史の序説を締めくくる。ここで質問を受け付けるが、簡潔に述べるように」学生たちは一瞬躊躇した。

「女性も、男性と同じ量の、血液、粘液、胆汁を持っているのでしょうか?」学生の一人が質問した。

「我々にもそのことについては確信がない。しかし、これらの体液のバランスが崩れると男女ともに病気になる」彼は答えた。

「僕の母親は、胆汁をたくさん吐き出しますが」バスクからきた学生が言った。

「病気にかかっているに違いない」ハシェが言った。

「そんなことはありません。すこぶる元気です」

「いずれにせよ、患者を診なければ診断できん。幸い、我々の医術はガレノスの時代より進んでいる。我々は、人体を切開するなど、科学的研究を重ねておる。もし、君の母親が近くにいるなら、」教授のまんざら冗談でもなさそうな勧めを聞いてバスクの学生は青ざめた。

「生きている人間も切開するということですか?」彼は尋ねた。

「その通り。だが、生体解剖はめったに行われない。主として死体を解剖し詳細な人体解剖図を描いておる。人体解剖により、我々は、新たな知識を得て、それは今日の医療に役立っておる」

「現在どのような治療法がありますか?」今度はミシェルが聞いた。

「例えば、薬事療法だ。薬は、液体、粉末、錠剤に精製されておる」教授は答えた。「だが、残念なことに、偽医者、薬草家、魔女が薬を調合していることもある。その他の効果的な治療法には瀉血によって病を身体から流し出す方法もある。瀉血は私の専門だ」
 質問の後には昼の休憩があった。休憩後、ハシェ教授の講義は日没まで休まず続いた。夕方、ミシェルと学生たちは、カフェテリアで質素な食事をとり大学を後にした。

「町を通っていかないか?」ノートルダム・デ・タブレ教会で追いついてきた学生がミシェルを誘った。教室で隣に座っていた生き生きとした目をした学生フランソワ・ラブレーである。ミシェルもその気になり一緒に町を歩き回った。彼らはすぐに意気投合した。
 フランソワは、開けっ広げで、話し上手であった。行くところそこかしこで、見るものすべてに普通の人なら聞くだけで顔を赤らめるようなあからさまで珍妙な名前をつける。反抗心の強いフランソワが語るに良心のとがめを感じるものはない。彼は、異端のこと、つらい感情、身体のことなど常人は口に出せぬことも平気で語った。また、ミシェルの受け答えがあまりにまじめだと、突然、子供っぽく振舞ったり、猥らにふるまったりもした。
 フランソワ自身もミシェルの知識の量に深く感心していた。サン・レミから来た学生は生き字引のようだ。
 彼らは居酒屋には入り、そこで、ミシェルは、両親がかつてはユダヤ教徒であったこと、祖父から受けた教育そして、アヴィニョンで中断した占星術の勉強のことを語った。

「じゃあ、ぼくらは似たような境遇だね」フランソワは言った。

「境遇?」ミシェルが驚いて尋ねた。

「それは、ユダヤ教とカタリ教は、両方とも、カソリックから見れば脅威だ。君はユダヤ教徒、僕はカタリ教徒だ」

「君がカタリ教徒だって?カタリといえば、最後のグノーシスだろ」

「もちろん、神のみぞ知る、だ」フランソワは、にやっと笑った。「我々は、表立ってはカタリを信仰していないが、真のクリスチャンとして、影では信仰を続けている。実のところ、モンペリエには、かなりの数の信者がいる。僕の父親は、モンペリエで食堂を経営しているが、そこで、時々集会を開いている。もちろん隠れてだけど。もし興味があるなら、一度連れて行ってやるよ」

「おもしろそうだね。僕は、君たちがどのような説を唱えているのか興味があるよ。ラテン語の聖書などの研究を通して、グノーシスの教えは常に十分な根拠に基づいている」

「その通り、だから、カソリックの指導者に嫌われているのさ」フランソワは付け加えた。

「君たちの信仰が禁止されている理由はそれだけかい?」

「いや、我々は個人主義者だ。そして、我々の聖典は福音書から直接翻訳されている。一方、教会は、力を基にして成り立ち、彼らは原罪について教えている」

「そうだね。法皇、司教、神父は、聖書を彼らの都合の良いように解釈している。だが、基本的に、我々は同じものを信じている」これは、ミシェルの宗教観であったが、ラブレーはミシェルの考えに疑問を持った。

「我々には独自の規律があり、我々は、カソリックが信じるように全霊の神がすべての善悪を創造したとは信じていない。その上、我々は、個人の自由、女性平等を求め、あらゆる暴力に反対している。カソリックは違う!」

「僕は、もともとのギリシャの聖書のことを言っているんだよ」ミシェルは正した。「ギリシャの聖書ではそのことに異議を唱えていないよ」

「フム、そうかもしれない。僕は君ほど勉強していないんだ」


1年間、医学の基礎を学んだミシェルとフランソワは、難なく、次の課程に進んだが、2年生のクラスは30人に減っていた。今日は、彼らの初の実習である。ハシェ教授は、教壇に立ち、てぐすねを引いていた。

「諸君、2年生の課程は、瀉血の実習で始めることになっておる。実際に不治の病を宣告された患者を私自身が執刀する。心配するな、黒死病の恐れはない」

「黒死病とはなんですか?」ミシェルが聞いた。

「それは、君、ペストの呼び名だよ。だが、これ以上、講義を中断せんでくれ。大量の出血を伴うが、諸君が気を失わないよう願うよ。私は慣れているがね」助手が、黄疸の症状が著しく、衰弱して座っていることもできない女を椅子に縛り付けて運びこんだ。患者は、目もうつろで焦点が定まらず、まっすぐに前を見ることもできない。周囲のことなど気にすることもなく、うめき声を洩らしていた。彼女の胸の痛むような症状に教室には動揺が走った。

「君たちは、彼女に同情して、私のことを残酷だと思っているだろう」教授は言った。「しかし、実験は科学に貢献する。結果を考えればその手段も許されることだ。その上、この女性には経済的な補償が与えられることを約束する」ハシェ教授は尊大な態度で被験者に近づき、後を続けた。

「瀉血には2つの方法がある。1つは、血管を切る方法だ」教授は、患者の腕の適切な位置を示した。「2つ目の方法には、ヒルを使う」彼は、ポケットから、様々な生体標本の入ったビンを取り出した。

「今日は、1つ目の方法のみを実習する。いずれにせよ、こいつらはすでに満腹しているからな。1つ目の方法では、患者は棒を握り締めなければならない。血管を膨張させ、瀉血処理を早めるためだ。残念ながら、この女性は衰弱して棒を握ることができないので深く切開しなければならない」彼は、医療鞄からメスを取り出した。

「この実演を私と一緒に行う志願者はおらんか?」彼は聞いたが、その勇気を持つものはいなかった。そこで教授が指名した。

「ド・ノートルダム君、手伝ってくれるかね」ミシェルは従順に立ち上がり教授に近づいた。

「ここを縦に切開してくれ」教授は、ミシェルにメスを渡しながら命じた。

「まず手を洗うべきではありませんか」ミシェルは聞いた。

「手を洗うって、何のために?もし君が怯えているのなら、私が自分でするよ」

「教授」フランソワが果敢に割り込んだ。「私の学友が意図したのは、もし、僧がなまけて土地を耕さなければ、農民はその土地を守ろうとしないでしょう。もし医者が民に病を治すことを教えなければ、民は病を癒すことはありません。お分かりですか?」ハシェは一言も理解していなかった。

「ウム、その通りだ」教授は嘘をつき、自分自身で、乱暴に前腕部に深い切り込みを入れた。予想通り、そこから血が噴出したが、教授は、慣れた手つきでガラス容器にそれを集めた。ミシェルは教授のなすがままにまかせ、席に戻った。
 教授は、止血をした後も、すぐに傷口を縫合するべきであるにもかかわらず、生徒に動脈を観察させた。その後、ようやく、病人は部屋から連れ去られた。実習を終わって、教授は満足げに生徒を見回し、医学の将来を推測する者がいるか尋ねた。ミシェルが手を挙げた。

「詮索好きだが臆病者の君か、続けろ」ハシェは皮肉った。

「将来、身体の一部を人体移植するようになるでしょう」ミシェルは提案した。

「君はまじめな学生だと思ったのだが」

「僕はまじめです」

「明らかにふざけとる」教授は否定した。

「僕はまじめに言っています」ミシェルは主張した。

「だれも、そんな根拠がないくだらない話に興味を持たんよ」

「もちろん、科学的な根拠を申し上げられませんが、教授は、推測をお尋ねになったのですよね」

「もう十分だ。今後、私の授業に下らん考えを持ち出さぬよう」教授は、ばかにされたかのように憤慨して言った。授業の後、ミシェルは、フランソワに、怠け者の僧の話は何の意図があったのか尋ねた。

「いや、別に意味はないよ。ただ、あの鬼教授の思考能力をテストしてみただけだよ」彼は気軽に言った。

「君はまったく意地悪だね」

「もちろん」ラブレーは恥ずかしさなど微塵も見せず笑った。帰り道、彼らは衛生の必要性について語り合った。


 ある晩、2人の友人は、フランソワの父親の食堂で、カラス貝の料理をご馳走になっていた。食堂は、熱心に会話をかわすカタリ信者であふれていた。今晩は、食堂の裏の部屋で礼拝があるのだ。元ユダヤ教徒であるミシェルも招待されていた。礼拝を待つ間に、フランソワは最近、イタリア語の医学書を翻訳していて忙しいことをミシェルに打ち明けた。

「意欲的だね」ミシェルは答えた。

「それだけじゃない。デビュー作となる小説も書いているよ。「偉大な巨人ガルガンチュワの息子、高名なるディプソードのパンタグリュエル王の世にも恐るべき言動」といタイトルだ」

「すごいタイトルだけど、ちょっと長すぎないかい?」友人は意見を述べた。

「たぶん、単に「パタングリュエル物語」とした方がいいかもしれない。ところで、話は変わるけど、君は、自分自身で満足を得られるかい?」

「何だって?」

「マスターベーションをするかい?」
ド・ノートルダムは、こっそりまわりをうかがい、彼らの会話を耳にしている者がいないことを確かめた。

「フランソワ、その質問は行き過ぎだ。君の知ったことじゃない」ミシェルは怒って答えた。

「おい、僕はただ、これから始まる秘教の教えに備えて聞いているだけだよ」

「何を言っているんだい?」ミシェルは混乱して尋ねた。

「礼拝では、お祈りをするだけではなく、グノーシスの教え、つまり聖なる知識が明かされる。今晩は性行為についてだ」
 彼らの会話は、集まった人々が裏の部屋へ移動する音で妨げられた。集会の時間になったのであろう、2人の青年も彼らについて個室に入った。室内では、人々が厚い絨毯の上に座っていた。短い祈祷の後、信者の一人が一重ねの書き物を手に立ち上がり、説教を始めた。

「今夜は、ヘルメスの杯について話をする」彼は信者に告げた。

なんてこった、ミシェルはつぶやいた。ヘルメスはゼウスとマイアの息子、神の使いだ。
 男はこれから話す内容を示すために、人体を描いた神秘的な絵を見せた。その頭には象徴的な溢れる2つの杯が描かれていた。そして、2匹の蛇が仙骨から背骨をつたって、心臓の高さに広げた羽まで這い上がっていた。

「皆も知っているように、古い経典では、我々に性力を細心の注意を持って扱うよう教えている、しかし、なぜ、我々は長年にわたり貞節を持つように教えられているのであろうか?その答えは、教会が信者に信じ込ませている説とは異なる。教会は、生殖に励むよう命じている。信者の子孫を新たな信者として取り込むのは容易だからだ。権力への渇望から、教会の指導者は福音書を曖昧に曲解し真の理由を隠しているのだ。古い経典では、「種を失うな」とのみ説いている。言い換えれば、種を失うことを許していない、愛の行為の間にあってもだ」ミシェルは驚いてフランソワを見た。さっき言っていたのはこのことか。
「グノーシスにおける聖なる目的は、個人主義の啓蒙と魂を聖なる自然に戻すことである」神秘主義者は続けた。「この図は性行為中の精子の転移を示している。この繊細な知識は、モンペリエにある学校のような神秘宗教の神学校でのみ教えている。古代エジプトのファラオもこの教えを学んだ。この術には、男女の性行為中に性力をコントロールすること、特に男性の自己コントロールが必要だ。2つの魂が溶け合っている間にも射精を抑制することにより、聖なる閃きが生まれる。この閃きは、ラテン語でいうところの「イグナティス」そして、「グノーシス」という言葉の起源である点火のことである。この閃きは、男女性器間で誘導されて超自然的なエネルギーを生み出す。この2匹の蛇行する蛇に象徴される、このエネルギーは脊柱を通って上昇する。再生されたエネルギーは、この経路を通って、いわゆるマーキュリーの杖の天辺まで上昇し魂の翼を広げるのだ。このエネルギー、クンダリーニとも呼ばれるが、はさらに上昇し、ヘルメスの杯まで昇る。ただし、真の愛が存在する時にのみだ。真の愛が存在するなら、やがて杯は満たされ杯はあふれる。そしてエネルギーはゆっくりと心臓の前まで下っていく。これを7回繰り返すことにより、男は完全に開花するのだ」神秘主義者は、描画をしまった。

「ご起立願います」信者が立ち上がり、ごく普通の祈りを捧げた。フランソワは心から祈りを捧げていた。さらに15の神秘が語られ、礼拝は終わり茶が供された。
 その夜ふけ、信者が立ち去った後の部屋で、2人の学生はその夜の教義について話し合っていた。

「礼拝の前には、君が猥褻に身を落としたのかと思ったよ」ミシェルは詫びた。「でも、カタリの教義にはすっかり心を奪われたよ」

「君が興味を持つと確信していたよ」フランソワが答えた。

「もちろんだ。でも、カタリの教義では、人生は人に与えられた罰であるかのようだね」

「もちろん、一生の間には収穫もできる。この術を正しく使えば、特別な力を培うことができるんだ。自然は君の言うことに耳をかたむけるだろう」

「馬とも話しができるっていうこと?」ミシェルはおどけた。

「例えばね」

「まじめに言っているのかい?それともぼくをからかっているのかい?」

「僕はまじめだよ。紅海は、モーゼのために道を開いたじゃないか?」ラブレーは指摘した。

「それじゃあ、すぐにも全人類はこの術を実行に移すべきだ」

「それはしない方がいいよ、この世に、この術に値するほど清廉な人間はほとんどいない。誤った意図でこの術を使えば、混乱が起きるだけだ。この世は闇の人間ばかりだ。気をつけろよ」ミシェルは、しばらくの間考えこんだ。

「この術の術者にも子供ができるのかい?」彼はたずねた。

「こうのとりが運んでくるさ」

「よかったよ。君のくだらない冗談が戻ってきた」仏頂面をして、ミシェルが帰ろうと立ち上がった。

「ごめんよ。まじめに答えるよ。普通の人たちが人口を維持するために十分な子供を生んでくれているよ。その上、優れた子供は新しい信者から生まれてくるものなのだ」

「欲望を超越することがこの術の基本だと思うよ」ミシェルは考えた。

「実際のところ、イブが禁断の実を口にして以来、楽園から男が消え去ったのだ。我々は、山を動かしてでもイブの罪を償わなければならぬ」

「禁断の実?」

「禁断の実は男の精子の象徴さ」フランソワは最後の一杯のお茶を飲みながら説明した。「で、君はマスターベーションするかい?」

彼の友人は、悲しげに首を振り部屋を出た。まったくラブレーは困ったものだ。


数年に渡って集中的に医学を学んだミシェルに医師として治療にあたる許可を得た。大学での課程は終わっていなかったが、彼は大学を離れ、実際にペスト患者の治療にあたることを望んだ。黒死病が彼の眠っている洞察力を呼び覚ます、とヘルメスが言ったことが常に頭から離れなかったのだ。
 19歳の若き医師、ミシェルは、フランソワにこの計画を話した。フランソワは、ミシェルと別れることは残念ではあったが、ミシェルは実際の治療にあたる力をつけていることを認めていた。

「で、自分のことをなんて呼ぶつもりだい?」フランソワは尋ねた。

「ただ、ド・ノートルダム医師だ」

「科学者が自分の名前の語尾をラテン風に変えているは知っているだろう?」

「うん、でも...」ミシェルは、虚栄を張ることを嫌い躊躇した。

「第一印象が大事なんだ。ノストラダムスはどうだい?」

「なかなかいいね」
アイデアを出したフランソワは笑った。数日後、ミシェルとフランソワは再会を誓って別れを告げた。

ミシェルは、自分の医学知識をサン・レミの近隣で役立てたいと思い、両親の家へ帰った。両親は息子の帰宅を喜んだ。父親は、ミシェルが祖父の屋根裏部屋を使うように提案した。

「ジュリアンに最初に相談したほうが良くはなくって?」レニエールは夫に注意した。

「ジュリアンは、屋根裏部屋で勉強しているだけだが、ミシェルは、家のために稼ぐようになるんだ」父親は言い返した。

「あの子をあっちこっちに移してばっかりよ」母親は譲らなかった。

「わかったよ、ジュリアンに聞いてみるよ」屋根裏部屋で、法律を勉強していたジュリアンは、長兄のために場所を空けることに異存なく、本をまとめて階下の自分の部屋へ戻ることになった。ジュリアンにとってもミシェルの帰宅は歓迎すべきことであった。教科書の翻訳を手伝ってもらえる。
 終わりよければ、すべてよし。一年ぶりに帰宅したミシェルは、寛容な心を持つ家族に再会して幸せであった。彼の弟たちは、体格も良く育ち、まさに巣を離れ広い世界へ飛び立とうとしていた。ベルトランは大工を志しており、家のほとんどの家具は彼の作であった。
 彼には父親の跡継いで公証人になる意志はまったくなかった。彼いわく「頭脳労働のせいで、お父さんの額は変形してしまったから」だ。たしかに、父親は、平らで高く突き出た奇妙な額をしていたが、華奢できれいな手をしている。その上、ジャックは少し頑固で、いつも取るに足らない細部にまでこだわる。
 母親はもっと勘に頼る性格であった。ミシェルは、初めて、いかに母親が魅力的な女性であるかに気付いた。均整のとれた体つき、美しい顔立ちと優しい目を持ち、長く輝く茶色の髪をいつも結い上げている。見知らぬ人でもすぐ信用してしまうことが、唯一の欠点であった。何度か、彼女の目の前でお金を盗まれてしまっている。
 一方、父親は、見知らぬ人には適度に疑いを持って接している。両者は互いにうまく補い合っている。
 エクトールとアントワーヌは、まだ進路を決めかねていた。

「私が何をするかは決めたわ。マッツァを作る」将来の計画を語り合う重い雰囲気を吹き飛ばすように、レニエールが軽快に言った。「ミシェル、手伝ってくれる?その間にモンペリエのことを聞きたいし」ミシェルは喜んで、母親の後について台所へ行き、粉と水を混ぜ始めた。

「で、学校はどうだったの?」母は促し、息子は、学生時代の出来事を語り始めた。

「あら、裏庭で火を燃やしていたのを忘れていたわ」彼女がさえぎった。「すぐ戻ってくるから、パンを捏ね始めていてちょうだい」数分後、母親は煤にまみれて戻ってきた。ミシェルは、それに気付かぬふりで話を続けた。
 大学での話をしているうちに、家中に種なしパンの焼ける香りが漂った。父親がテーブルでカリカリに焼きあがったマッツァを切り分け、学業を成就した息子の帰宅を祝った。

「病気の知人がいるんだが、見てやってくれないか?」食後にジャックが頼んだ。

「それは、市の医者の仕事でしょう?」ミシェルが聞いた。

「その医者をあまり信用しておらんのだ。デルブロンドさんの容態は悪くなる一方だ」

「それじゃ、様子を見てみます」息子は約束した。

「ところで、アルル市で医者を探しているようよ」レニエールが思い出した。「応募してみたら?」

「そうしてみるよ。ありがとう。おかあさん」

翌日、ミシェルは病の床についているデブロンドを訪れた。これまで、デブロンドは市の医師ヴィリアンの治療を受けていた。ヴィリアンは、市民の傷の治療し、腫瘍を切開し、瀉血を行い、歯を抜き、ハーブ薬を調合し、髪を切り、鬚も剃る。
 デブロンドは市の無料診療の恩恵を受けられずにいた。病が長びいた彼は、治療費を払うために家宝の木の根を使ったタンスすら売らなければならなかった。本当に極貧の者ためにしか市はその治療費用を負担していなかった。

彼を一目見るやいなや、ミシェルの懸念は確信に変わった。ヴィリアンの治療は旧式だ。デルブロンドは、緩下剤と各種の切開によって衰弱していた。患者の容態は致命的であった。ベッドに横たわるデルブロンドの脇には彼の妹がつきそっていた。ミシェルが自己紹介をすると、半分錯乱状態ではあったが、デブロンド老人はミシェルを覚えていて昔話を始めた。しかしすぐに妹に引き止められた。

「先生、すぐに診察してください」彼女は言い、切開した皮膚が化膿して兄の容態がより悪化したことをミシェルに告げた。ヴィリアンは切開により余分な体液を取り除こうとしたのだ。ミシェルは患者を診断しその結果を教えた。

「病気自体は致命的ではなかったのに、これまでの治療法によってお兄さんは致命的な状態になっている。もし、お兄さんに殺したくなければ、切開したところを縫合しなければならない。そして、下剤はすぐ捨てなさい」彼は厳しく指摘した。妹はショックを受けたが、治療法が間違っていたことに気付きミシェルに同意した。
 ミシェルはすぐに鉄のチューブを切開口から取り除き傷口を洗浄した。

「お兄さんに、新鮮な果物と野菜を毎日あげてください」帰りがけにミシェルは妹に言った。「少し回復したら、また来ます」

この「不法診療」の話を耳にした市の役人は激怒し、警察にこの偽医者を捕まえるよう命令した。しかし、ミシェルは、医者の認可証を見せ、フランス内のいかなる患者を治療する権利があることを証明した。役人たちは、乱暴にもサン・レミには、一人しか医者は必要ないと主張したが、ノストラダムスは一歩も引かず、彼らはなすすべもなかった。

1週間も経たぬうちに、デルブロンドは体力を取り戻し、一躍注目をあびたミシェルが少し散歩をするように勧めると、数ヶ月ぶりに町の中を歩き回った。市民が見守るなか、彼の健康は飛躍的に回復し、ヴィリアンと役人は面目丸つぶれであった。
 一方ミシェルは医師としての名を上げ、数日のうちに、病人がド・ノートルダム邸を訪れるようになった。ミシェルの治療を受けた病人はすべて治癒した。その後もヴィリアンは、大きな失敗を重ね、ついにミシェルは、公式にサン・レミ市の医師に任命された。
 ミシェルの宣誓式がすむやいなや、突然、カマルグでペストが大流行した。郡役場の報告のよるとその地域の犠牲者は数千に及んでいる。新米の医師ミシェルは大きな挑戦に直面した。

この疫病は非常に伝染性が高く、家族の一人がペストに罹れば、その家族もまた2日から6日の間に死に至り埋葬される運命を逃れることができない。犬、猫、鶏、馬でさえ犠牲者であった。しかし、ミシェルは、その恐怖を撥ね返し、あたかも自分は免疫があるかのように治療にあたった。
 幸運にも、サン・レミでは、まだペストが発生していなかったが、近くのサン・ドフェでは、ペストが発生し市民生活は止まっていた。死体は、疲れ切った家族によって掘られた急造の墓に投げ入れられるならまだしも、通りにも放置され腐敗していた。空気中に漂う耐え難い腐臭を消そうと香木が燃やされていた。人々は、自分の命を守るためであれば、ペスト患者は家族であっても家から閉め出している。町から逃げ出す市民もあった。

ミシェルは、彼にとって初めてのペスト患者を診療しにこのペストが蔓延する村を訪れ、泥で作られた小屋で死の床にある少年のもとに案内された。幼い少年は血を吐き、身体中が大きな黒斑点と卵大の腫瘍に覆われていた。母親は空気を清浄しようと床に酢を撒いていた。果敢な医師ミシェルは少年を診察したが、実のところ、彼にもなす術はなかった。ペストの治療法はまだ発見されていない。大学では、瀉血を施すよう教えられていたが、ミシェルは症状を悪化させるような治療を行うことを潔しとしなかった。家族に少しでも安らぎを与えようと、子供の首に悪霊払いに使うハーブのお守りをかけた。彼は、この非常に伝染性の高い疫病の症状の記録をとり、なんら実質的な治療も施せず、少年を後にせねばならなかった。

その後、ミシェルは数人のペスト患者を訪問したが、彼らは、まず神のもとでの魂の安らぎに救いを求めていた。彼の訪問先どこにでも、患者を案じる神父が懺悔を聞き、死後の安らぎの地を保証しようとしており、残念ながら、ミシェルの治療は二の次であった。
 ミシェルは以前にもまして、無知とは大罪であると身にしみた。しかし、迷信の蔓延、教会の勢力の濫用、無知は、常識的に病気の原因を解明しその治療方法を発見しようと、ミシェルを奮い立たせた。
 彼は、身体の外側に腫瘍できるものと肺を犯すもの、2種類のペストを識別した。症状を検討した結果、衛生の重要性を確認した。衛生は、ユダヤ教では、何世紀にも渡って教えてきたことだ。
 ミラノにおける興味深い病例は彼の発見を裏付けた。大司教の命令でペストに犯された最初の3軒の家を住人も含めてレンガで囲ってしまったのだ。この結果、ミラノはさらなるペスト感染を免れた。この厳しい処置は、ペストは目に見えず感染することを証明した。
 そこで、ノストラダムスは、隔離期間を導入した。隔離期間の間、患者には、食料と水は与えられるが、健康な市民は患者と接することは禁じられた。この方法はある程度の効果をあげた。
 ミシェルは、病気が風によって運ばれているのではないかという疑いを持ち、ペストに侵されていない近隣の村の住民にマスクを配った。その住民たちは疫病を免れ、ミシェルはバクテリアの存在を考え始めた。そして、可能であれば、1週間に1度は温水の風呂に入ること、食事の前に石鹸で手を洗うことを指示した。また、定期的に、リコリスの根を噛む、蜂蜜水または酢で口をゆすぐなどして歯を清潔に保つこと、爪を切ること、髪や鬚を切ったり洗ったりすることを勧めた。また、服を着替え、できれば温水や沸騰したお湯で洗濯し、常に清潔な服を身に着けることも説いた。
 効果的なペストの予防法を見出したににもかかわらず、ミシェルの意見は外野に止まっていた。法皇& #12463;レメンス7世が、堅固な意思を持ちペストと戦う医師の噂を聞き、ミシェルをアヴィニョンの私邸に招くまでは。法皇は、いかにして来るべくペストの感染から自分の身を守ることができるか、ミシェルに尋ねた。ミシェルは、少なくとも私邸を離れるよう助言した。
 その1ヶ月後、実際に法皇邸の近在でペストが発生した際には、法皇は数週間自分自信を隔離した。この隔離により法皇は生き延び、ミシェルは名声を博した。
 その間もペストは国中に蔓延し、ヨーロッパ全体で多大な犠牲者を出した。ことに人口密集地の被害は大きかった。疫病に侵されると、訓練の行き届いた強固な兵を持つ軍隊も数日で倒れ、戦う以前に戦争に負けてしまう。偽医者は、このパニック状態を利用して、富を築こうとしていた。ミシェルは、夜昼なく、何千という患者の診療にあたった。
 4 年の後ようやく、ペストは下火になり、ノストラダムスは、医学課程を修了するためにモンペリエに戻った。
 フランソワは、すでに卒業してフランスを離れていた。大学職員は、改革派、ユマニストなど反体制派に対して厳しい処置がとられ、もはや、鋭利な科学者ですら歓迎されなくなっていることを告げた。しかしそんな風当たりにもかかわらず、運良くフランソワは、ピエモンテ総督の医師として採用されていた。
 ミシェルは再び、学業に取り組んだが、彼の先進的アイデアは教授たちの理解を得ることができず、反感を買った。しかし、彼の理論と実際の知識は優れたものであり、一年後、教授陣は彼に博士号を授与しないわけにはいかなかった。型破りの医師ノストラダムスは、短期間、大学で講義を行ったが、その治療方法は周囲を狼狽させ、ついに、学部長から警告を受けミシェルは大学を退いた。
「十分に試行した」ミシェルは、サン・レミの家に帰り診療を再開することにした。



第3章